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極端な聖書「預言」解釈への警鐘

聖書の「預言」について、社会情勢と関連させて解釈されることが多々あります。「聖書にはこう預言されているから、必ずそうなる」と自信満々に話している人を見ることもあります。

そのように解釈することを一概に否定はしませんが、そこには脆さもあるということは否めません。例えば、聖書の預言がすべてこれから起こることを予見していると考えた場合、一つ一つの出来事を実際の出来事に当てはめていくことになるわけですが、それは時にこじつけとも取れるような解釈に陥りがちです。国際情勢において起こる出来事(戦争など)が、聖書預言として理解され、すべてが予見されていたことであるかのように語られるのです。

その際、「預言」理解の前提には、未来の出来事がすでに決定されているという考えがあります。確かに「預言」は「未来」を含むものであるとは言えますが、少し注意する必要があります。

預言を理解する上で、「医者」のイメージが役に立ちます。お医者さんは、患者の症状を見て、診断します。例えば、生活習慣が悪い人であれば、「このままの生活を続けるなら、あと○○年しか生きられませんよ」と余命宣告をします。これは、確かに「未来」に起こることを話しているわけですが、その未来は「確定」しているわけではありません。その患者に残された選択は、そのままの生活を続けるのか、それとも改めるのか、です。もし生活習慣を改善することができれば、待ち受ける未来の結果は多少なりとも変わってくるでしょう。このように、医者というのは、現状を正しく見極め、診断した上で、未来の話をするのです。したがって、医者は確定した未来を予知しているわけではありません。

これと同じことが、聖書の預言(者)にも当てはまります。預言者は、未来に必ず起こることを語るというよりも、「このままいくとどうなるか」ということを語っているのです。そうでなければ、悔い改めを呼びかけることは全くの無意味となってしまうでしょう。あくまでも、現在の延長線上の未来について、つまり、現状が続けばどうなるのか、今この段階で見える未来について扱うのが預言です。

例えば、『ヨナ書』には、預言者ヨナが登場します。ヨナには神のことばが託されます。

主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。

ヨナ1:1-2(口語訳聖書)

この後、色々とありましたが、ここでは省きます。ヨナ書については、こちらをどうぞ。「ヨナ書4章の教訓:神のあわれみと人の思い」

そして、ヨナはニネベの人々にこう告げました。

時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。

ヨナ3:1-4(口語訳聖書)

ここでヨナに託された「預言」は、ニネベの町は40日後に滅びる、というメッセージです。これは「40日後」とあることからも分かるように、「未来」の話です。しかし、その後どうなったのかと言えば、町の人々だけではなく、王も悔い改め、最終的に、町は滅びなかったのです。

さて、それではヨナに託された「預言」は、間違っていたのでしょうか?ヨナは偽預言者だったのでしょうか?

ヨナは神に託されたことばを正しく語りました。その点において、ヨナは偽預言者ではありません。それでも、預言の内容と結果には違いがあったのです。しかし、その預言の効果は十分に果たされたと言えるでしょう。つまり、預言というのは、未来に関わることですが、それは現在、そしてこれからの行動の積み重ねの上に成り立つものであって、その過程を飛ばしたものではないということです。

この点を理解していないと、「預言でこう言われているから、どうせ仕方ない」という考えに安易に陥りやすくなります。あるいは、戦争や災害はすべて既定路線だから、これらのしるしがもっと起こるようにと過激な思想を持ってしまいかねません。

昨今、このような過激な思想が動画サイトなどで発信され、それに影響を受けているクリスチャンを散見しますけれども、「聖書預言にあるから」というその一点で、物事について深く考えることをせず、事態を改善させようと試みることもなく、ただなすがままに任せていることを是とする風潮が一部に広がりつつあることを懸念しています。そのような理解に立つならば、今この時をどのように生きるかを考えることには何の意味もなくなってしまうのではないでしょうか。しかし、クリスチャンに託されたメッセージは、それとは全く反対であるように思います。つまり、この世界を「どうしようもない世界」と諦めて見捨てるのではなく、そのようなどうしようもない世界で何ができるのか、を考えることにあると思うのです。

もし、聖書を読み始めようとされている(あるいは、すでに読み始めている)方がおられたら、そのような極端な解釈にはくれぐれもご注意ください。聖書が語る未来は、あくまでも「今」の上に成り立つもの、今と地続きのものなのです。だからこそ、今をどのように生きるのかが重要になってきます。聖書はお医者さんのように、現代に生きる私たち人間の状況を適切に診断してくれます。このままの生き方を続ければ、どうなってしまうのか。しかし、それは最終宣告ではありません。その診断を受けて、どう応えていくか、どう改善していくか、そこが問われているのです。

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