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神学的な理解が正しいことはどれくらい重要か?

昨今、インターネットの発達に伴い、誰でも簡単に情報にアクセスできる時代になりました。聖書を学びたい人も、どこでも手軽に学ぶことができます。それは歓迎すべき時代だと思います。

一方で、様々な情報に触れることができる反面、それが偏ってしまうという状況も生み出されています。例えば、動画サイトやSNSでは、一つの動画を見ただけで、似たような動画が勝手におすすめに出てくる仕様になっています。すると、膨大な情報の中から自分で選んで見ているようで、でも実は、同じような主義主張の中から選んでいるに過ぎません。

そのような時代にあって、たくさんの情報が容易に得られますが、それらをよく吟味するリテラシーも持たなければならないと思わされる今日この頃です。

そういった影響が直接的に関係しているかはわかりませんが、ある時「教会としての立場」をはっきりした方がよいのではないかと聞かれたことがありました。〇〇というチャンネルでこう言われていました、□□さんがこう言っていました。だから、私たちも最近話題になっているあれやこれや、曖昧にしないでもっと明確に主張した方がよいのではないか。そのような意見を耳にしました。

そのような話を聞きながら、なんとなく感じたことは、聖書解釈について、100%正しくなければ救われないという恐怖心のようなものです(ここでの「救い」とは、単に死後、神のもとに行くという意味で使っています。特に深い意味はありません)。キリスト教界ではいろいろな意見が飛び交っていて、中には大きな分断を引き起こすテーマもある中で、正しい方を選択すること、言い換えるなら、船は2艘しかなくて、片方は沈没するので、ちゃんと目的地に着く船に乗りたい、そのような思いが感じられたのです。

確かに、聖書を「正しく」解釈することは大事なことです。当然、そのことを目指して私自身も聖書の学びを続けているわけですが、しかし、完全に正しい解釈というのは、これまでになされて来たのか、と言えば、それはあり得ないだろうと思います。というのも、今もなお聖書の研究、神学の営みは世界中で続けられているからです。中には、数世紀前とは、全く異なる理解が出現したこともあります。ですので、昔の人々と現代の神学は、ある意味では異なります。それは、進歩・発展してきたという意味で全く異なるのです。

しかし、もし100%正しい解釈でなければ救われないとしたら、一体いつの時代の誰が救われるのでしょうか。現代の聖書解釈は最先端かもしれません。しかし、もっと素朴で、でも芯のある解釈はこれまでもありましたし、あるいはこれから先、もっと深い解釈が見出されるかもしれません。

そのように考えますと、100%正しい聖書解釈というのは、限りなく不可能に近いのではないかと思います。完全に聖書を理解する時は、神の国が完成した時でしょう。それまで人間は神のことばの探究をし続けなければならないのだと、私は思います。

確かに、神学的理解を深める過程の中には、誤った解釈に陥らないようにする努力は必要不可欠です。イスラエルの預言者たちも、王や民に何度も忠告を与えました。ですので、当然現代でもそのような「注意喚起」は必要だとは思います。しかし、それは「自分は完全に正しい」という立場からなされるべきではないと考えます。なぜなら、100%正しいということはあり得ないからです。人間は間違いうる存在である以上は、完全に正しい判断をくだすことができるのは主なる神のみであることをわきまえなければならないように思うのです。

人間の最初の罪は、善悪の木の実を食べたことでした。それは、人間が「神のようになろう」とした結果であり、善と悪を判断される主権者なる神への挑戦でもありました。人間は自分で善悪を判断する、神のような主権者になりたかったのです。そのような兆候は、すべての人間に見られるのではないでしょうか。神の判断を仰ぐのではなく、人間が判断し、さばき合う、そのような現実があるように思われます。

そのように考えると、どれだけ自分の主義主張に自信があったとしても、最終的には神が主権者であられるなら、神を重んじるべきではないでしょうか。少なくとも、一致することができない問題があるなら、互いにさばき合い、排除し合うのではなくて、生涯をかけて向き合い、考え続けるべきではないかと思います。異なる意見の人を排除しようとするのではなく、なぜそのような違いが生まれるのか。読んでいる聖書は「同じ」わけですから、そのことが聖書をますます理解するきっかけになれば素晴らしいのではないでしょうか。

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