聖書における大きなテーマの一つは「永遠」です。今回は、この永遠について、思い巡らせます。
今を生きる私たちに「永遠」というのは、最も縁遠いもの、あるいは正反対に位置するものと言える、感じられるのではないでしょうか。なぜなら、私たちを取り巻くもの、そして何より私たち人間が「有限」なものだからです。
そのような有限な存在にとって、「永遠」とは何を意味するのでしょうか。
私たちの人生において、「永遠」という視点があるのとないのとでは、人生の見方が全く変わってくるように思います。例えば、永遠がないと考えるなら、どうなるでしょうか。あらゆるものには終わりが来ると考える時、そこには「どうせいつかは終わる(無くなる)のだから」という視点が入ってくるように思います。どうせいつかは死ぬのだから、何をしてもいいのだ、と考えることもあるかもしれません。
例えば、人間関係についてはこのようなこともあるかもしれません。「どうせ、あの人とはもう会うことはないのだから、仲直りしなくてもいいか。」しかし、もし人生に終わりがないとしたら、いつの日か「再会」する日が来るかもしれません。つまり、永遠という視点を持つときに、どうしても「終わりのない関係性」について考えざるを得なくなるわけです。いつか終わりが来ると考えて、投げやりになったり、諦めたりするのではなく、その問題について考え続けなければならないのです。
このように考えますと、「永遠」というのは、あまり喜ばしいものとは感じられないこともあるかもしれません。以前、ある調査について聞いたことがあります。それはもし自分の寿命を自分で決められるとしたら、何歳まで生きたいかという調査でした。すると、インタビューを受けたほとんどの人が永遠に生きたいとは答えなかったということです。150歳くらい生きられたらそれでよいと。なぜなら、人間関係にこれ以上悩みたいくないからです。例えば、夫婦関係に問題を抱えている人がいるとして、その関係がずっと続くのは困るという人も中にはいるかもしれません。近所付き合いも、もう懲り懲りだと思っている人もいるかもしれません。
このように、永遠という視点を持つことは、「どうせいつかは…」というエクスキューズを取っ払い、問題に目を向けさせます。そして、その問題を解決する方向へと促すものだと言えるのではないかと思います。もちろん、最初はそんなこと考えるだけでも嫌だ、と感じると思います。それなら、先の調査にもあったように、永遠なんていらない、と思ってしまうかもしれません。それらの問題に対処しなければ、その問題は「永遠」に残り続けてしまいます。
そのように考えると、ますます多くの人が思っているように、それなら「永遠」なんていらないとなってしまうかもしれません。それでは、「永遠」というのは、全く喜ばしいものではないのでしょうか。むしろ、ありがた迷惑なものなのでしょうか。
そこで、永遠のもう一つの側面について考えてみたいと思います。
永遠という視点を持つ時に、私たちは必然的に先のことを考えるようになるのではないでしょうか。この先もずっと一緒にいる、あるいは関係があると考えるなら、今何をして、何を言うのか、よく考えるのではないでしょうか。例えば、3年間で終わる学校生活であるなら、別に喧嘩してしまっても、3年の辛抱だと思えるわけですが、永遠にはそれがありません。そうであるならば、自分の行動に注意深くなるのではないかと思います。また、永遠には、忘却させる効果もあるように思われます。永遠という無限の時間の中で、過去が過ぎ去り、痛みが和らぐということもあるのではないでしょうか。エサウとヤコブの決裂した仲を解決した一つの要素は、「時間」であると言えるように思います。もちろん、ヤコブが経験した様々なことも大きな要因ですが、しかしそのためには長い時間が必要だったのです。そのように考えるなら、永遠というのは、私たちをいくらでも成長させる「ポテンシャル」を秘めている、と言えるのではないでしょうか。
改めて聖書の語るメッセージの一つは、「永遠」という視点を私たちに与えることにあるように思います。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
伝道の書3:11(口語訳聖書)
しかし、現実は、先の調査のように、あまり魅力的ではないと思われている実態があります。永遠のいのちをもらったところで、むしろ苦しむことになるではないかと言われるかもしれません。もちろん、そこにはそもそもの「永遠」についての誤解があることも事実ですが、そのことを踏まえないならば、聖書が語ろうとしているメッセージは一向に伝わらないものと思われます。なぜ、永遠のいのちが喜びなのか、という根本的なことを考えることが必要なのではないでしょうか。
このことは壮大なテーマでもありますので、引き続き考察を続けていきたいと思います。
ヨハネによる福音書 3:16(口語訳聖書)神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。