聖書には様々な出来事が記されていますが、その多くの場面で問われていることは、「主を信頼すること」です。これは現代に生きる私たちにも問われている大切なテーマだと言えますが、一見すると簡単そうに思われるかもしれません。しかし、いざ行動に移すとなると一筋縄にはいかないものです。
聖書が語ること、そして信仰者に求められていることは、忍耐強く、地に足をつけて歩むことす。具体的には、「待つこと(wait)」「拠り頼むこと(trust)」「望むこと(hope)」だと詩人は言います(20-22節)。
イスラエルの初代王であるサウルもまた神への信頼を試されました。しかし、結局のところ、サウルは主の命令を守れませんでした。サウルは、自分で何とかしようとしたのです。
8サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。
9そこでサウルは言った、「燔祭と酬恩祭をわたしの所に持ってきなさい」。こうして彼は燔祭をささげた。
10その燔祭をささげ終ると、サムエルがきた。サウルはあいさつをしようと、彼を迎えに出た。
11その時サムエルは言った、「あなたは何をしたのですか」。サウルは言った、「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、
12わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」。
13サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。 14しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。
サムエル記上13:8-14(口語訳聖書)
とは言え、サウルの行動から分かることは、少なくともサウルは「七日のあいだ待った」ということです。これは結構待った方ではないでしょうか。そこまで待ってもサムエルが来なかったので、ささげ物を献げたわけですが、それが主の命令を破ることになりました。このことから教えられることは、人間の考えていること、期待していることは、必ずしも神のみこころには当てはまらないということです。言い換えるとしたら、人間に神を測ることはできないということです。しかしながら、人はいとも簡単に神を測ろうとします。その際に、自分の思っていること、期待していることと目の前の状況が異なる場合、主を信頼することが難しくなります。
詩人は、創造主なる神のご性質を踏まえつつ、主は真実であると言います(4-7節)。創造の出来事において重要なことは、神のことばに偽りはなかったということです。神のことばはすべて「そのとおりに」なりました。これはまさに神のご性質を表しています。神は真実で、正義と公正を愛されるお方です。それゆえに、たとえ目の前の状況が自分の期待しているものと違ったとしても、「主の恵みで地は満ちている」と告白することができます。
「恵み(ヘブル語:ヘセド)」とは、すなわち、神の「変わることのない愛」を意味します。神様はイスラエルの民と契約を結び、神の民としてふさわしく歩むために「律法」を与えられました。この律法には、悔い改めの規定も含まれています。つまり、失敗してもやり直すことがイスラエルの民にはできたのです。主はいつも変わらない愛で、イスラエルを導いてこられました。その上で、民に求められていたことは、主を信頼することでした。イスラエルの状況を見ると、バビロン帝国の危機が迫る中、エジプトやアッシリアを頼りとしました。それは人の目からしたら頼りになると思われたからです。しかし、それがバビロン捕囚へと繋がってしまいます。
今、私たちはどのような状況に置かれているでしょうか。自分の期待しているものと全然違うでしょうか。たとえ、そうだとしても、主を信頼することが信仰者には求められています。待つこと、拠り頼むこと、望むこと。ですが、これらは受け身になって何もしないという意味ではありません。むしろ、積極的で、能動的な行動です。なぜなら、これは他のものを頼りとせず、ただ主を選び取る行為そのものだからです。これは最終手段ではありません。最初の決断がその後の行動を左右するものです。もしも、イスラエルの民が最初にこのような決断をしていたらば、他の国を頼りとすることはなかったでしょう。
そのようなことを考えるなら、信仰者に求められていることは、何よりもまず、主を信頼することを告白することだと言えるのではないでしょうか。その上で、日々主に感謝し、主を賛美して歩むことができたら幸いです。たしかに、人それぞれ直面する状況は様々で、簡単に言えることではありません。それでも、その只中で忍耐深く、主を信頼して歩むことができたなら、そのような歩みには、決して人の内からは生まれることのない「自信(神信とでも言いましょうか)」が溢れてくるように思います。もちろん、それでも主を信頼するということは難しく、まだまだ学び続けなければならない大きなテーマでもあります。だからこそ、誰よりも父なる神を信頼した、御子イエスの生き様から、学んでいくことが欠かせないように思います。