聖書を学ぶ上での土台は、自分にとって最も親しい言語に翻訳された聖書を読むことだと思います。世界には7000くらいの言語があると言われていますが、全ての人が母国語で聖書を読めるわけではありません。聖書翻訳の働きをしている「Wycliffe(ウィクリフ)」の報告によれば、「この世界にある、約7,400の言語のうち、聖書全巻(創世記~黙示録)の翻訳が終わっている言語は、たった700強ほど」とのことです。日本語で聖書が読めることは改めて感謝なことだと思わされます。
日本語の翻訳聖書の中にも、いくつか種類があります。新共同訳聖書や新改訳聖書、フランシスコ会訳、古いものですと、口語訳や文語訳があります。もちろん、他にもあります。読み比べてみると、少しずつ言い回しが違うことに気がつきます。思いっきり違う訳も時にはあります。そのような違いによって、読み手が受け取る印象が全く変わることも少なくありません。
翻訳に違いが生まれるのにはいくつかの理由があります。わかりやすいものを3つ挙げます。
①単純に日本語での言い回しの違いです。原文の意味が一つでも、日本語に翻訳した時に、いくつかの言葉や漢字が考えられる時は、翻訳者によって採用される言い回しは変わってきます。とりわけ、詩篇は「詩」ですので、文脈や響きなども意識して訳されます。その分、それぞれの翻訳の特徴が出てくる書とも言えます。
②原語にいくつかの意味が考えられる時、翻訳ではどの意味を採用するかは、翻訳者(委員会)の神学的な考え方に沿って決められます。どのような立場(神学)で翻訳されるかによって、訳語が全く異なるということもあります。
③底本となる原語自体が異なっているということも考えられます。どういうことかと言いますと、聖書を翻訳する時、オリジナルとなる原文(底本)を選びますが、翻訳聖書によってこの底本がそもそも異なるということです。なぜ聖書は一つなのに、そのようなことが起こるのかと言えば、「聖書」として現存しているのが、何世代にもわたって書き写されてきた「写本」だけだからです。その写本を緻密な研究によって、オリジナルの聖書の形としてまとめたものが「底本」となって、翻訳されます。もちろん、これらは全体の方向性を覆すような大きな違いということではありません。
このように、翻訳には様々あります。これは一見、混乱の元とも思われるかもしれませんが、むしろ、言語の深みを味わうために、異なる翻訳があるということは、信仰者にとって有益です。オリジナルの原語には、日本語の1単語では表現しきれないものもあり、いくつかの翻訳を読み比べることで、一面的なイメージから、多面的なイメージへと広がります。
このような翻訳の違いがあることを踏まえるとわかることがあります。それは翻訳をする作業というのは、まさに「聖書を釈義する」、つまり「Exegetical(な)」な取り組みであるということです。それには、忍耐を持って聞き続ける必要があります。その際、必要かつ重要になってくるのは、オリジナルのテキスト(原文)です。ヘブル語やギリシア語に聞く中で、聖書の理解はさらに深まるだろうと思います。
もしかしたら、ヘブル語やギリシア語を使って聖書を読んでみたいと思われる方もおられるかもしれません。現代では電子機器の発達により、昔よりもはるかに触れやすくなりましたので、聖書を原語で学ぶためのツールを次回紹介できたらと思います。
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