創世記の冒頭で、人間にある戒めが与えられます。それは、エデンの園にある食物の中で「善悪の知識の木」からは食べてはならないという命令です。それを食べると、「必ず死ぬ」とさえ言われています。ところが、周知の通りアダムとエバは食べてしまいます。
二人はその後どうなったのでしょうか。実は、二人とも食べたにも関わらず、死にませんでした。「肉体的に死ななかった」と言う方が正しいかもしれません。やがて、肉体も死ぬことになりましたが、何百年も後の話です。しかし、神様は確かに「必ず死ぬ」と言われました。
その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2章17節)
新改訳2017
ここで「とき」と訳されている言葉に注目したいと思います。この言葉はヘブル語で「בְּי֛וֹם」(ベ ヨーム)となっています。「ヨーム」は「日(day)」という意味です。文脈によっては「とき」と訳されることがありますが、ここでは「その日」と解した方が筋が通るように思います。なぜなら、「その日」に二人は「死」んだからです。「とき」と訳すと、食べた「瞬間」死ぬかのように感じないでしょうか?
それはどのような「死」だったのでしょうか。その手がかりは、彼らが食べたとき、つまり「その日」に何が起こったのかを理解することです。その木から食べた「その日」、二人に起こったことは、エデンの園からの追放でした。エデンの園は、まさに神の創造の最高傑作であり、神の臨在に満ち溢れているところでした。これは、人にとっても、神との交わりが豊かにあったことを意味します。ところが、そこから追放されたということは、神と人との間に決定的な断絶が生まれてしまったということに他なりません。人は神の「霊(ルーアッハ)」(創世記2:7)が吹き込まれてこその命であったのに、神と断絶してしまっては、もはやそこに命はありません。まさに、エデンの園からの追放はアダムとエバにとって「死」を意味していました。その後に起こる肉体的な死はこれに付随するものだと思われます。
実際、新約聖書では「罪人」=「死んでいる」とみなされています。例えば、使徒パウロはこのように言います。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。(第一コリント15章22節)
新改訳2017
他にも、イエス様に出会った罪人や病人は、罪の赦しや病の癒しを通して「生きる」者とされました。ザアカイもそのよい例だと思います。このように、神様と断絶する、離れているという「霊的な死」が最初の人間によってもたらされたと考えることができます。もちろん、霊的な死と肉体的な死は関係していると思います。
結局、何が言いたいのかといいますと、創世記2章17節は「そのとき」ではなく「その日」の方が良いのではないかということです。ESVやNKJV、NRSVでも「in the day」になっています。NIVは「when」ですが、これは新改訳と近いニュアンスですね。ちなみに、ESVでも脚注に「(or) when you eat」とあります。聖書協会共同訳では「取って食べると」となっており、時間軸の視点は薄れたニュアンスになっています。こういった訳語を読み比べたりして考えてみるだけでも理解が深まって面白いですね。
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