普段はあまり意識して読むことはないかもしれませんが、聖書で使用されている言葉が、「動詞」か「名詞」かということを意識するだけでもハッとさせられることがあります。今日のテーマは「信仰」についてです。といっても、これは聖書の中でも大きなテーマですので、今日は少しだけ触れます。
「信仰」と訳される言葉はギリシア語では「πίστις(ピスティス)」という「名詞」です。「真実」や「忠実」といった意味合いがあります。そして、「信じる」と訳される言葉は「πιστεύω(ピステオー)」といいます。これは「動詞」です。日本語での文章を考えればわかることですが、その文脈によって、名詞を使うのか、動詞を使うのかというのは変わってきます。例えば、「あの人の『信仰』は立派だ」と言う時に動詞を使うと「あの人の『信じている』は立派だ」となり、文章としてはおかしなものになってしまいます。ですので、名詞か動詞かという使い分けは、ある意味では自然になされるものだと言えます。
ところが、もしもこの言葉が意図的に使い分けられていたとしたらどうでしょうか。「πίστις(ピスティス)」という単語は、新約聖書では243回使われており、主要な単語の一つと言えます。ですが、その中で一度もこの単語が使われていない書があります。それは、『ヨハネの福音書』です。(ちなみに、『ヨハネの手紙第一』では1回、『ヨハネの手紙第二』と『ヨハネの手紙第三』ではどちらも0回です。ヨハネ文書では極端に少ないことがわかります。)それでは、『ヨハネの福音書』では信仰について語られていないのかと言えば、そうではありません。名詞は一度も使われていませんでしたが、動詞の「πιστεύω(ピステオー)」は使われています。それも新約聖書で使われる241回の内、実に98回がこの『ヨハネの福音書』に見られます。この多さから、明らかに著者が強調している大切なポイントであることがわかります。しかしながら、そこで著者は、名詞を使わずに動詞を用いた、ということは注目に値します。
それでは、名詞と動詞の違いは何なのか、という話になります。もちろん、これも文法の語法をより正確に調べたら色々と発見があることだと思います。ひとまず、その決定的な違いを示すならば、それは、「静的」か「動的」かという点が挙げられます。『ヨハネの福音書』の著者は、信仰を「動的」なものとして伝えたかったということです。「動的」という言葉からは、まさに「動いている」「動作している」といったイメージが連想されます。このことを踏まえるならば、信仰というのは、クリスチャンが信じるという動作、つまり生き方そのものが「信仰」であるというダイナミックなものであると言えるのではないでしょうか。信仰とは決して飾りのように「静的」なものではなく、動かしてなんぼのものであるということが、名詞か動詞かの違いから伝わってきます。
もちろん、聖書の中には、動詞だけではなく名詞もありますので、一概に全てに当てはまるわけではありませんが、『ヨハネの福音書』を読む際は、そのような動的なイメージで「信じる」という言葉を読むと今までとは違った新しい視点が得られるのではないでしょうか。
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