創世記18-19章に「ソドムとゴモラ」という町が滅ぼされるという出来事が記されています。この話は一般的にも知られていて、腐敗した事柄を形容する際に用いられる言葉でもあります。聖書を知っている方であればなおさらよく知っている話かと思います。
ざっくり説明すると、ソドムとゴモラという町に悪が溢れ、それがあまりにも酷かったため、神が滅ぼすと言われた話です。そこで、それを聞いたアブラハムが、その町には悪い者だけではなく、正しい者もいるかもしれないのに、本当に滅ぼすのですか?と尋ねます。これが、いわゆるアブラハムの「とりなし」と言われるものですけれども、まずアブラハムが提示するのは、その町に五十人の正しい者がいたら、滅ぼさないでほしい、ということでした。すると神は、もし五十人の正しい者が町の中にいたら滅ぼさずに赦すと言われました。このやりとりが何回か続いて、最終的にアブラハムが提示したのは、十人です。正しい者が十人いたら、町は滅ぼさないと神は言われました。
そこで場面は変わり、ソドムの町に二人の御使いがやってきます。彼らはロト(アブラハムの親戚)に迎えられますが、そこへ町の者たちがやってきて二人を引き出すように要求します。この一連のやり取りの後で、御使いが言ったことは「この町を滅ぼそうとしている」ということでした。先ほどのアブラハムとのやりとりで、十人の正しい者がいたら滅ぼさない、ということでしたが、その後、「硫黄と火」が町に降ったということから、その町には正しい者が十人もいなかったということになります。
一般的に考えられるのは、町の者たちが二人の御使いを受け入れなかったということで、その町には正しい者が十人いないとみなされたことになるのだと思います。ですが、少し疑問に思うのは、どうやって町全体に正しい者が十人いないと判断したのか、ということです。確かに、御使いに対する人々の対応は悪いものでした。それは町の悪を象徴するものであったかもしれませんが、アブラハムと神様のやりとりで具体的な数字(十人)が挙げられている以上、適当に数えて判断を下したとは考えにくいようにも思います。
そこで、ポイントになるのが、最初に主がアブラハムに言われたことだと思います(創世記18章21節)。
わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。
新改訳2017
I will go down to see whether they have done altogether according to the outcry that has come to me. And if not, I will know.”
ESV
特に最後の一文のところで、二つの翻訳のニュアンスが微妙に違うことがわかります。原文では、וְאִם־לֹ֖א אֵדָֽעָהとなっています。これをほぼそのまま訳出すると、ESVにあるように「そして、もし違うなら、私は知るだろう」となります。「もし違うなら」というのは、ソドムの町の人々が「悪い者ではないこと」だと考えられます。ここで「悪い者」と聞いてまず連想されるのは、倫理・道徳的に正しいということだと思います。確かに、そのような意味もあると思いますが、ここではその意味が第一の意味ではないと、私は考えています。悪い=倫理的に正しくないと考えますと、先で述べたような一般的な解釈になります。ですので、「正しい者」と「悪い者」の意味について注意を払う必要があるということです。
「もし違うなら、私は知るだろう」というのは、どの時点でわかることなのでしょうか。御使いが人々と接した時点でしょうか。「悪い者=倫理的に正しくない」と解さないならば、それは一連の出来事が終わってから、明らかになることだと考えられます。つまり、硫黄と火が降った後に、正しい者と悪い者がはっきりする(私は知るだろう)ということです。そう考えるならば、「悪い」「正しい」というのは、この文脈では、神を信頼するということと深く関係していると言えます。硫黄と火が降っているその只中で、神のことばを信じ、逃げるのか、それとも「悪い冗談」のように思うのか。結果的に、命が助かったのは十人に満たなかったという点で、大多数の悪い者たちは滅ぼされました。
ここで「滅ぼす」というのは、「町」ではなく「人」にかかる言葉であるというのも重要な点だと思います。神とアブラハムとのやりとりで、アブラハムが願っていたのは、「正しい者を悪い者と共に滅ぼさないでほしい」ということでした。そう考えるならば、硫黄と火が降ったその時点では、全ての「正しい者」には助かるチャンスがあったと考えられます。つまり、主を信頼する者です。ですが、実際にはロトの家族以外は誰もいませんでした(ロトたちもどこまで神様に信頼していたのか…)。最終的に、硫黄と火を逃れたロトたちを見て、「私は知るだろう」という言葉が完了したと言えます。
ソドムとゴモラの話は、「終末」と関係づけられて語られることが多い箇所でもあります。確かに、硫黄と火が降ることと神の最終的な裁きがリンクしている点は否めないでしょう。ですが、現代では不必要に強調して用いられていることも多分にあるように思います。例えば、第二ペテロ3章10節にはこのような言葉があります。
しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。
新改訳2017
この一文は、終末のイメージとソドムとゴモラに起こった出来事が似ているような印象を与えるかもしれません。ですが、この部分は、原語レベルで議論されている箇所です。新改訳2017では脚注にありますが、「なくなってしまいます」という単語の代わりに、底本となるヘブル語聖書の種類によっては「暴かれる」という言葉が使われています。ESVも「it will be exposed」と訳しています。つまり、地のものが文字通り滅ぼされるというよりも、何かが明らかになる(暴かれる)という解釈もあるということです。そう考えますと、単に一般的なソドムとゴモラのイメージでは説明できないように思います。このままいくと話がさらに膨らんでしまうので、またの機会にしたいと思います^^;
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