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権力の用い方

しばらく前に話題になっていた映画『教皇選挙(Conclave)』が最近配信されたので、さっそく観てみました。良くも悪くも人間臭さが表現されていたと思います。教皇であっても間違いを犯す一人の人間です。また、さまざまな人間の思惑の影響を免れることはできません。それでも、そのような人間が、人間によって作られた「制度」の中で、教皇という地位に着くのです。

カトリック教会において、教皇というのは、権力を持つ存在であることは明らかです。もちろん、根底には神に仕えるしもべという意味があるわけですけれども、しかし、制度としての教皇には、誰もが手にしたいと思うような権力(地位とか名誉など)が付随します。

教皇という制度に対して、特にプロテスタント側からは否定的な意見があることはよく知られていることですが、しかし一概には否定できないとも思います。やはり、「教皇」に限らず、この世の教会には人間によって作られた様々な制度があります。そしてそれらには制定の経緯がありますし、その制度は十分に機能しうるものでもあると考えます。たとえば「牧師」というのも、ある意味で人間によって作られた制度と言える場合があります。それは、教団教派によって決められたプロセスを経て、牧師になるケースです。もちろん、「聖書的」にはそのようなことは明確な規定はないことは明らかです。しかし、歴史的経緯の中で、そのようなプロセスが生まれてきました。それは、特にあまりにも偏った解釈で、聖書の理解を歪めてしまうことがあり得たからです。そこで、ある程度、議論や研究の中で、コンセンサスの取れた偏りすぎないような知識を身につけることが、大きな混乱をもたらさないためには必要となりました。そのような意味で、牧師という制度は、確かに人間によって作られた枠の中にあるものだと言えますが、同時にその制度が生まれた理由も理解できます。

このように制度というのは、その経緯をよく知れば、必要であることがわかる(ことが多い)かと思います。しかし、問題は、それが機能しなくなる時です。

その筆頭が「権力」であることは言うまでもありません。権力そのものが悪いのではなく、それを悪用することに問題があります。『教皇選挙』を観ながら、やはり枢機卿と言えども、一人の人間であり、そこにはいろいろな思惑があることを考えさせられました。教皇となるからには、正しくその権力を用いることが期待されているということもよくわかりました。

しかし、残念ながら、人類史上、人間が権力を正しく用いた試しはないのではないでしょうか。権力というのは、まさに「魔物」です。最初は上手に飼い慣らせていたとしても、次第に権力の魔物に呑み込まれてしまうのです。聖書の例で言えば、その代表的な存在は、ダビデ王でしょう。幼少期の立派な信仰心は、晩年にはどこかに行ってしまったかのような立ち居振る舞いです。最初の頃は、自ら戦いに出て、自軍の士気を上げていました。しかし、晩年では自分は神殿に残り、部下だけを戦場に送るようになっていったのです。

結局のところ、権力はそれ自体が問題を孕むわけではありません。その使い方が何よりも重要だと言えます。しかし、人間は権力を与えられると必ず堕落するというのが、歴史上明らかになっていると言っても過言ではありません。だからこそ、権力を持つ者は、自身に対する忠告にはいつも敏感である謙虚さが求められます。イスラエルの歴史においては、王の道が逸れないように忠告するのは、預言者の役割でした。現代において、権力はあらゆるところにあります。教会においても、ある意味において、牧師が「権力」を持ちうることはあります。もちろん、それはリーダーシップという点で、生かされることもあるわけですが、しかし同時に、それが暴走することがないように、教会が一丸となって、よく観察することが欠かせません。

その中で、やはり、主イエスが教えているように、権力を横暴に使うのではなく、人に仕えるために用いることが、すべての権力者には求められているように思われます。

42そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 

43しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、

 44あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 

45人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

マルコの福音書10章42-45節(口語訳聖書)
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