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Verse by Verse—些細でささやかな釈義研究—

Ps.81:15における補足について(刑罰、災い、運命)

詩篇81篇15節bには、原文にはない言葉が翻訳聖書では補われていることが多いです。

新改訳2017では「刑罰」、共同訳では「運命」、聖書協会共同訳では「災い」が補われて、訳出されています。要するに、「どのような時」であるのかが、補足されているということです。

しかし、「刑罰」と「災い」、あるいは「運命」では、幾分ニュアンスが異なります。

ではなぜこのような解釈の違いで出てくるのでしょうか。

おそらく、表面的には同じように見える事柄でも、視点の違いによって、その捉え方が変わってくるということではないかと思われます。

この文脈で言えば、イスラエルの民にとって、捕囚といった苦難は、神からの「罰」のように思えたでしょう。しかし、神の側からしたら、それはイスラエルの民自身が、自分で選び取った道であり、自ら招いた「災難」でもあります。

このように表面的には同じ事柄でも、そのことを誰の視点から説明するかで、表現が変わってくるということです。

それでは、この文脈ではどうでしょうか。詩篇81篇の特徴は、神の側から見たイスラエルの民であることを踏まえるなら、おそらく「災い」や「運命」といったニュアンスの方が適切なような気がします。直前の、79篇や80篇では、まさにイスラエルの民の側の視点から語られています。その場合は、「刑罰」であると表現することも可能だと思いますが、81篇は神の側の視点から描かれています。たとえば、12節では「それゆえ、わたしは彼らをそのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた」(口語訳聖書)とありますが、これはイスラエルの民を好きなようにさせたという神の側の視点です。民は自分たちがなぜこのような目に遭っているのかと嘆いていますが(79篇、80篇)、神の側から見たら、それは自分たちが好きなようにした結果です。

したがって、そのように自分たちの選んだ道を進んだ結果、招いた悲劇は、人間から見たら神からの刑罰に思われたとしても、神の側から見たら、それは自ら選んだ運命、災いであると言えるのではないかと思います。

Luke.10:25-37(祭司とレビ人)

ルカの福音書10章25-37節は、「善いサマリア人」というたとえ話として広く知られています。半殺しにされた人の元に3人の人が通りかかり、初めの二人は通り過ぎ、最後に来たサマリア人が介抱したお話です。

当たり前のことですが、サマリア人に注目されることがよくあります。ですが、あえて祭司とレビ人に注目したいと思います。

では、なぜ初めの二人、つまり「祭司」と「レビ人」は通り過ぎてしまったのでしょうか。大きな理由としては、「血」に触れると汚れるから、ということが挙げられると思います。その上で、通り過ぎた二人が「自己中心的」であったからとみなされることが一般的には多いように感じます。

確かに、最終的にはそうとも言えるのかもしれませんが、しかし、細かい状況を考えるなら、必ずしも単純な話ではなさそうです。たとえば、祭司もレビ人も神殿で仕える働きをしています。つまり、血に触れてしまうと、しばらくの間、その汚れゆえに隔離され、神殿での奉仕ができなくなってしまうわけです。それは、自分たちだけではなくて、神殿に礼拝に来た人々にも影響を及ぼすものです。

現代的に言えば、牧師が感染症の患者に接して、しばらく礼拝活動ができないといったところでしょうか。もっと言えば、日曜日の朝、感染症の患者に接し、当日教会に行くことすらできなくなったと言えるかもしれません。

そのようなことを踏まえるなら、通り過ぎていった祭司とレビ人を、頭ごなしに否定することはできないように思います。少なくとも、もし自分が同じような状況になった時に、そのように通り過ぎる可能性が0ではないということを強く思わされるのではないでしょうか。

このような視点も持つことで、たとえ話の理解が深まるということもあるように思います。

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