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【考察】なぜまずユダヤ人に語られなければならなかったのか?—使徒の働き13章43節を中心に—

パウロは一般的に「異邦人」(簡単に言えば、ユダヤ人ではない人)に対する使徒として知られている人物ですが、パウロは当初「ユダヤ人」に福音を語っています。しかし、(一部の)ユダヤ人たちが拒絶したため、パウロは異邦人を対象に福音を伝えにいくことになります。

その時の出来事について、使徒の働き13章にこう記されています。

パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。

使徒行伝13章46節(口語訳聖書)

では、なぜパウロは「まずあなたがた(ユダヤ人)に語り伝えられなければならなかった」と言っているのでしょうか。

よくある誤解としては、ユダヤ人の方が異邦人より優位であるとか、特別であるとか、何かランクが上であるかのように考えられることです。

たしかに、ユダヤ人と異邦人の間には「違い」があります。しかし、それは人間的な優位性とか、階級とか、地位とか、そのようなものではありません。喩えるとしたら、「兄弟」といったところでしょうか。そこには「兄」や「弟」という意味においては「違い」がありますが、親の目には兄だろうが、弟だろうが、その価値は変わりません。

また、たしかにユダヤ人は「特別」であると言えます。しかし、その特別さは、先に述べたような意味ではありません。それではどのように特別であるのかと言えば、それは、特別な使命が与えられているという点において「特別」だと言えます。その使命とは、すなわち、諸国の民に神の祝福を伝えるということです。

この使命は、イスラエルの父であるアブラハムにまで遡ります。創世記12章において、アブラハム(その時はまだアブラム)は神から召し出されます。その命令が創世記では何度もアブラハムに語られているわけですが、その一つが、諸国の民に神の祝福を広げるということ、祝福の基になるということです。

したがって、アブラハムが神から受けた務めをアブラハムに連なるイスラエルの民、ユダヤ人は受け継いでいるわけです。ですので、すでに創世記12章の段階で、世界宣教へのビジョンが示されていると指摘されることもあります。

このことを考えるなら、なぜパウロが初めにユダヤ人に福音を語ったのかがわかると思います。つまり、ユダヤ人に異邦人へ神の祝福を伝える務めが与えられているからです。だからこそ、まずユダヤ人がそのことを聞く必要がありました。

ところが、使徒13章を読みますと、一部のユダヤ人たちはそのメッセージを拒絶しています。

44次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。 

45するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。

使徒行伝13章44-45節(口語訳聖書)

なぜ一部のユダヤ人なのかと言いますと、中にはパウロの語ることを受け入れたユダヤ人たちもいたからです。このことは、イエスの宣教活動においても顕著に表されています。イエスがあわれみを示されたのは、罪人と呼ばれる人たち、病人たちなど、いわゆる社会から除外された人たちでした。そのような人たちというのは、神殿での礼拝に参加することができませんでした。しかし、そのような礼拝することすら許されない人たちのところに、イエスは赴かれたのです。

そして、この行為こそ、神の祝福を伝える、届けるということに他なりません。ここで言う「祝福」というのは、神と共に歩むことができる幸いと言ってよいと思います。言い換えるなら、神の民とされるということです。あなたも神の目にかけがえのない者であり、神への礼拝に招かれている者であるということを、まさにイエスはその生涯において示されました。

ところが、そのことによってイエスやあるいはパウロが多くの群衆を引き連れていたことが、一部のユダヤ人には受け入れ難いことであり、それゆえに「パウロの語ることに口ぎたなく反対した」のだと思います。だからこそ、パウロは46節でこういう訳です。「しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。

本来は、ユダヤ人が神の祝福を知っている者として、それを諸国の民へ伝える務めがあったわけですが、その務めを果たすことを拒絶した結果、パウロ一向は異邦人へと向きを変えたのです。したがって、ユダヤ人が拒絶したから、異邦人にも救いがもたらされたというのは、厳密には誤りだと言えます。なぜなら、ユダヤ人が福音を拒絶しなかったら、彼ら(彼女ら)が、異邦人にもそのことを伝えていたはずだからです。時折、「ユダヤ人が受け入れなかったから、私たちに福音が語られた〜」と耳にしますけれども、そうではないだろうと思われます。

そのことを考えるなら、なぜイエス・キリストが「ユダヤ人」としてお生まれになったのかがわかるかと思います。イエスはギリシア人、ローマ人、あるいは日本人として生まれてもよかったのではないか、と思われるかもしれませんが、それではダメなのです。なぜなら、イエスが人としてお生まれになった理由は、ユダヤ人が果たせなかった務めを果たすためであるからです。だからこそ、イエスはユダヤ人としてお生まれにならなければなりませんでした。そのようにして、「まことのイスラエル」として、神の祝福を広げるというその務めを果たされたのです。

特別さというのは、その意味を正しく理解していないと、誤った方向に行きかねません。イスラエルの民が選ばれたのは、アブラハムの召命に明らかなように、諸国の民に神の祝福を伝えるためです。その使命が初めに与えられたのは、アブラハムであり、イスラエルの民です。あえて言えば、その当時、その使命は異邦人には与えられていないのです。その意味において、ユダヤ人は特別です。なぜなら、そのような特別な使命が与えられているからです。ただし、新約時代においては、アブラハムはクリスチャンにとって「信仰の父」ですから、神の祝福を広げるという使命と現代のクリスチャンは無関係であるとは言えないだろうと思います。

しかし、ユダヤ人はいつの間にかその特別さの意味を履き違えてしまいます。つまり、その祝福を独占してしまったのです。その祝福に異邦人は含まれていない。祝福にあずかりたいのなら、ユダヤ人にならなければならない。そのような全く反対のベクトルを持つようになっていきました。

このような特別さ、というのは、現代においては、選挙に通じている部分があると思います。政治家も選挙を通して選ばれます。選ばれた者には、ある種の「特権」が与えられます。しかしそれは、自分の私利私欲のためではなく、この社会を良くするために用いられるべきものです。ところが、いつの間にか、その特権にしがみつき、自分の利益のために乱用されることもあります。ユダヤ人もまた、選ばれたことの意味を履き違えていってしまった結果、一部のユダヤ人(上層階級)以外が、神殿礼拝から除外されるという事態を招いてしまったわけです。

「選び」の教理というのは、時々、波紋を呼んだりするものだと思いますけれども、選びの理由を考えたら、極めて筋の通ったものであるように思います。政治家が選挙で選ばれるのは、特権階級にしがみつき、甘い汁を吸うためではありません。社会を良くするという使命を果たすためです。同じように、ユダヤ人が選ばれたのも、自分たちだけが祝福を享受するためではなく、異邦人にもそれを広げるためです。このようなわけで、パウロはじめ、使徒たちは、まずユダヤ人に福音を語りました。

ですので、究極的には、ユダヤ人と異邦人の間に、「差」はありません。クリスチャンの中でも、ユダヤ人は特別、一目置いているという、極端なリスペクトが見られたり、あるいはある種の劣等感のようなものが感じられたりすることもあるようですが、そう考える必要は全くないだろうと思います。

そのことの証左として、新約聖書で繰り返し語られていることがあります。それは、ユダヤ人も異邦人もない、ということです。

 24召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

コリント人への手紙第一1章24節(口語訳聖書)

28もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。 

29もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

ガラテヤ人への手紙3章28-29節(口語訳聖書)

11そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

コロサイ人への手紙3章11節(口語訳聖書)

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