聖書の中で、ヘブル語「トーブ」の用法に注目することは重要だと思われます。この言葉は、一般的に「良い」という意味ですが、聖書中では文脈によっていくつかの訳語が当てられています。ただし、英訳聖書では、”good”で統一して翻訳されているような印象を受けます。
「トーブ」が使われている箇所として、最も有名だろうと思われるのは創世記1章です。ここでは「神はそれを良しと見られた」という言葉が繰り返されています。ここでは「トーブ(טֽוֹב)」は「良し」と訳されています。ちなみにこれは形容詞です。
そして、創世記2章には「善悪の知識の木」が登場します。ここでは「トーブ」は「善」と訳されています。ESVやNIVでは、”the knowledge of good(ט֥וֹב) and evil”となっています。日本語の「良し」と「善」だと、受けるイメージがだいぶ違いますね。
最初の人間アダムとエバが、禁止されていた木から食べてしまったことが、堕落の始まりと言えるかと思いますが、本質的な問題は何かと言えば、人間自らが「善と悪」を判別したいと思った(=神のようになりたい)ことでした。本来は、善と悪の判断は創造主の役割でありましたが、それを人間が自分のものとしてしまったことが、問題の根源です。ちなみに、『創世記』ではこの「善と悪」の選択というテーマが全体に響いています。善と悪の選択で人間は間違いを犯しましたが、創世記の最後の記事(50章20節)では、ヨセフを通して「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いこと(טֽוֹב)のための計らいとしてくださいました。(新改訳2017)」と言われています。
何が「善」で何が「悪」かを決めるのは主権者なる神である。このことを受け入れることは信仰者にとって重要なことだと思われます。詩篇には次のような一節があります。
「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」
詩篇16篇2節(新改訳2017)
ここで「幸い」と訳されている言葉は、「トーバー(טוֹבָה)」で名詞です。ESVだと、この一節は “You are my Lord; I have no good apart from you”と訳されています。つまり、英語だと一貫して “good” となっているわけです。そのように考えますと、ここで詩人が言っていることは、善と悪を判別される神の主権を受け入れる、という告白に聞こえてこないでしょうか。「幸い」と訳すと、解釈に余計な幅が出てきてしまいそうな感じがします。ちなみに、このように「トーブ」の翻訳は文脈によっていろいろありますが、神ご自身が「トーブ」であるという時は、多くの場合「いつくしみ深い」と訳されます(例:詩篇106篇1節)。ここでも英訳聖書(ESVやNIV)は、”good” と訳しています。
もちろん、邦訳聖書で訳し分けられているということは、それなりに意味があるのだと思います。「トーブ」には単に「良い」という意味だけでは説明し尽くせないような深みがあるとも言えるかもしれません(「幸い」「いつくしみ深い」と訳すように)。とはいえ、こうして原語に注目すると、聖書全体で一貫して語られているメッセージが浮かび上がってくることも覚えておきたいと思います。
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