愛することは大損すること

愛することは大損すること 新約聖書
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「愛すること」は聖書が語っていることの中心的なメッセージだと言えます。そして、愛するということは、言い換えるなら、「仕える」ことであり、「赦す」ことでもあると言えるでしょう。「隣人を自分自身のように愛する」、「敵を愛する」、「七の七十倍赦す」、「互いに仕え合う」など、イエスはことあるごとに、愛の実践について教えています。そして、誰であっても、イエスが言わんとすることの大切さを理解できないことはないように思います。

しかしながら、それが素晴らしいメッセージであると認識することと、それを受け入れ、自分の生き方に取り入れることは同じではありません。

そこで、ある人はこう言うかもしれません。「聖書の教えはこんなにも素晴らしいのに、どうして受け入れる人が少ないのか。」その理由は、明確であるように思われます。つまり、それは素晴らしい教えであると同時に、受け入れることがとても難しいのです。

「愛しましょう。」「赦しましょう。」「仕え合いましょう。」このように言うことは簡単です。「聖書にそう書いてある」と言うことも簡単です。しかし、現実問題として、それを実践することに葛藤や難しさを覚えるのが、人間であるように思います。はっきり言って、「できるものならすでにやっている」と思うのが、多くの人の所感ではないでしょうか。

ではなぜ愛すること(仕えること、赦すこと)は難しいのでしょうか。それは、聖書でもたびたび用いられる借金返済のイメージで考えればよくわかるかもしれません。

21そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 

22イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

 23それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 

24決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 

25しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 

26そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 

27僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 

28その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 

29そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 

30しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 

31その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 

32そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 

33わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 

34そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 

35あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

マタイの福音書18章21-35節(口語訳聖書)

ここで示されていることは、神の国で生きる者にとっての基準です。もちろん、それは単に死後の話をしているわけではなく、クリスチャンとして生きている時の生き方の話です。そしてそれは、ゆるす生き方です。そして、ここで用いられているイメージは借金の免除です。

借金を免除するということは、決して簡単なことではありません。なぜなら、借金を免除するということは、すなわち、大損をすることだからです。たとえ、借金を免除したとしても、その負債は事実、残り続けるのです。免除された方は「助かった!」となりますが、免除した方は損をすることになります。

このように考えますと、「赦す」ことがいかに難しいかということがわかるかと思います。そして、難しいどころか、この世の道理に反しているとさえ言えるかもしれません。借金は返すもの、というのが一般的に教えられることであり、誰もがそのことを当たり前とします。そのような価値観の中で、「愛すること」「仕えること」「赦すこと」を教えることは、いかにこの世の考えに「反している」かということは、言うまでもありません。「大損しなさい」と言われて、誰が喜んでそうするでしょうか。

しかし、まさにここに聖書が語るメッセージがあるように思います。つまり、イエスがなさったことは、この世の価値観とは逆行するものであるということです。そして、そこに示された生き方に、クリスチャンは招かれているのです。

愛することは大損することである。この世の基準で考えたら、到底受け入れられることではありません。しかし、イエスがその生涯で示されたことは、まさにこの世の価値観を逆転させることでした。支配者となって人の上に立つのではなく、しもべのように人に仕えること。敵を憎むのではなく、愛し祈ること。そのような価値観こそが、神の国に生きる者が持つべき基準であることを示されたのです。

大損してまでも、命を捨てるほどの愛を示されたのは、他ならぬイエス・キリストです。たしかに、自分の命を捨てることは、この世の基準では「大損」です。しかし、新しく始まる神の国の基準では、それは損ではないのです。「僕の主人」が莫大な負債をゆるしたように、罪赦され、神の愛を知った者は、同じようにその基準で生きることが求められています。それなのに、いいところだけ神の国の基準を取り入れ、自分に都合の悪いところはこの世の基準で生きるなら、それはダブルスタンダードと言わざるを得ません。だからこそ、自分が受けたように、人にもすることが重要になるのです。

愛することが大損することであるということがよくわかると、軽々しく「愛しましょう」と言うことはできなくなるように思います。特に、自分自身がそのように生きる決心がついていなければ尚更です。この世で、神の国に生きる者として生きることは、少なからずこの世の影響を受けることになります。そのような中で、愛を実践することは簡単なことではありません。だからこそ、自分自身がまず愛され、赦された者であることにいつも目を留めておく必要があるのではないでしょうか。そのことを知れば知るほど、人に対してもどのように接するべきかが、自ずと示されていくように思います。

まずは、自分が免除された途方も無い莫大な借金がどれほどのものであるのか、その愛の大きさを知ること。そこから、愛し、仕え、赦す旅路は始まっていきます。

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