神への「畏れ/恐れ」はおそらくあまり人気のないテーマだと思います。しかし、聖書で一貫して語られているテーマの一つであり、軽んじることはできません。
神をおそれるということは、言い換えるなら、神の主権を認めるということです。ですので、単に神という存在の前に、「ガクガク震える」ということではありません。
詩篇76篇には、神がいかに恐るべき方であるかということが証しされています。それでは、なぜ神は恐るべき方なのでしょうか?
7しかし、あなたこそは恐るべき方である。
あなたが怒りを発せられるとき、
だれがみ前に立つことができよう。
8-9あなたは天からさばきを仰せられた。
神が地のしえたげられた者を救うために、
さばきに立たれたとき、地は恐れて、沈黙した。
詩篇76:7-9(口語訳聖書)
恐るべき神の前に人は立つことができないほどに、神の恐ろしさが強調されています。しかし、重要なのは、なぜ神はそれほどまでに恐ろしいのかということです。そこで「神が地のしえたげられた者を救うために」という言葉に注目するならば、神の怒りとは、そのような虐げられている者、つまり弱い者や貧しい者のための怒りであることがわかります。
詩人はこのように続けます。
10まことに人の怒りはあなたをほめたたえる。
怒りの余りをあなたは帯とされる。
11あなたがたの神、主に誓いを立てて、それを償え。
その周囲のすべての者は
恐るべき主に贈り物をささげよ。
12主はもろもろの君たちのいのちを断たれる。
主は地の王たちの恐るべき者である。
詩篇76:10-12(口語訳聖書)
ここで問題となっていることは、弱い者を虐げる「もろもろの君」「地の王たち」は、結局のところ、神を恐れていないということです。つまり、神の主権を認めていないので、そのような暴虐を行なってもよいと考えているわけです。しかし、ここで詩人が呼びかけていることは、「恐るべき主に贈り物をささげよ」ということです。地の王たちは贈り物を受け取ることはあっても、ささげることはしなかったでしょう。
それでは、ここでいう「贈り物」とは何でしょうか。一見すると、恐るべき神に、金品などの、まるで貢物をささげるようなイメージが連想されるかもしれませが、文脈を踏まえるならば、神はそのようなものをここで求めているわけではないことは明らかです。神がなぜ恐ろしいのかを考えた時、それは貧しい者たちに対する不当な仕打ちを行う地の王たちの振る舞いが挙げられます。神を恐れない彼らは神の主権を認めていないのです。そのような者たちがささげるべき贈り物とは、まさに自分自身の主権です。自分の持っている主権を神に明け渡すこと。それこそが、神にささげるべき贈り物だと言えます。
それでは、自分の主権を明け渡すということはどういうことでしょうか。ヨハネの黙示録に次のような一節があります。
10二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、
11「われらの主なる神よ、
あなたこそは、
栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。
あなたは万物を造られました。
御旨によって、万物は存在し、
また造られたのであります」。
ヨハネの黙示録4:10-11(口語訳聖書)
このことを参考にするならば、まず神への贈り物とは、「冠」だと言えます。自分が被っている冠、すなわち主権をまことの主権者なる神に差し出すということです。神の主権を認めるということは、要するに、この世界が神によって造られ、支配されていることを認めるということです。あらゆる賛美を受けるべきお方であるということを認めるということです。
ですので、自分の主権を明け渡すということは、何か「自分」という個性がなくなるということではありません。むしろ、主権者なる神をほめたたえる者へと変えられるということです。神によって生かされていることを喜んで、またあらゆる困難の中でも神を信頼して、ゆだねて生きる者にされるということです。
以上のことから、神へのおそれと神の主権の関係が繋がったのではないでしょうか。神をおそれるということは、神の主権を認めるということです。
確かに、神は「恐るべき方」だと言えます。しかし、なぜおそろしいのかと言えば、それは不当に苦しみを受け、抑圧されている者たちのために怒られるからです。それゆえに、誰であっても、自分がそのような抑圧を与える立場に立っているかどうか、よく吟味する必要があると言えます。それは神の喜ばれることではなく、むしろ、神に敵対する行為となってしまっているからです。もしそのことに気付いたならば、自覚が少しでもあるならば、自分の冠を神の御前に差し出すことができたらどれだけ素晴らしいことでしょうか。
もちろん、自分の主権を明け渡すことは簡単なことではありません。しかし、自分の主権を持ち続ける限り、この地から戦いが止むことはありません。それは、誰もが自分の主権を主張し、ぶつかり合う世界です。しかし、冒頭で詩人はこのように述べています。
3かしこで神は弓の火矢を折り、
盾とつるぎと戦いの武器をこわされた。
詩篇76:3(口語訳聖書)
誰もが自分の主権を主張し、ぶつかり合っているこの世界で、神こそが、武器を壊し、戦いを終わらせ、平和をもたらすことができます。しかし、そのためには、人間が神に主権を開け渡さなければなりません。自分の主権を主張する人間が平和をつくることは、不可能だと言っても過言ではありません。だからこそ、それがどれだけ難しいことであったとしても、神をおそれ、神の主権を認めることが求められていると言えるのではないでしょうか。