そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
ルカの福音書23章34節
この箇所は、『新改訳2017』の脚注によれば、有力な写本にはないようです。実際、『新共同訳』や『聖書協会共同訳』では、括弧付きとなっています。これまでの『新改訳』の翻訳の傾向を踏まえると、まずは脚注でその旨を示し、その後の改訂などで、括弧付きにしていくのではないかと思います。やはり、伝統的に親しまれてきた箇所をいきなり変更するというのは、なかなか大変なことなのではないかと推察します。
確かに、この十字架上でのイエス様の言葉はとても有名なものであるように思われます。もしもこの言葉が、なかったとしたら、何か大きな影響はあるのでしょうか。
これまでいくつもの写本が存在してきましたが、中には後代に書き加えられた、あるいは多少の修正が加えられたということが写本の研究では明らかになっています。ですので、聖書翻訳においても、研究の成果が改訂ごとに反映されているわけでもあります。しかし、付け加えられたからといって、それがオリジナルと無関係であったということにはならないということも大切なことであるように思われます。例えば、「主の祈り」の原文には、末尾の「国と力と栄えとは〜」はありませんが、当時の人々が主の祈りの最後にこのことを加えて、祈りを締めていたとしても不思議ではありません。つまり、付け加えられるにしても、全くの無関係なことではなくて、それなりの理由があったということが考えられます。
そういったことを考えるなら、イエス様の十字架上でのこの言葉も、イエス様が実際に発していたとしても、大きな矛盾が生じることではないように思われます。しかしそれでも、聖書の翻訳はあくまでも原典に忠実に、ということなので、「オリジナルの写本にはどうやら記されていないようだ」と研究によって明らかになれば括弧付きにしたり、あるいはカットするということもあり得るということです。それはそれで、聖書に忠実にという姿勢の表れなので、大事なことではないかと思います。
ちなみに、この箇所を説教で取り扱うのか、というのは、説教者によって分かれるところではないかと思います。興味深いのは、注解書によっても、全く触れないものと触れるものに分かれるということです。
それでは、この言葉はどれだけイエス様に結び付けられるのかということが、やはり気になるところです。ここでポイントになるのは、神に対して罪人の赦しを求める描写が他にもあるのかどうか、ということではないかと思います。
例えば、民数記14章19節には、イスラエルの罪のために、神にゆるしを求めるモーセの姿があります。「どうぞ、あなたの大いなるいつくしみによって、エジプトからこのかた、今にいたるまで、この民をゆるされたように、この民の罪をおゆるしください。」イスラエルの民にとっては、イエス様はモーセの系譜に当たることを考えれば、イエス様がモーセのように民の罪のゆるしを神に願うことは、おかしなことではなく、むしろ辻褄が合っていると言えます。
また、とりなしという観点では、『ヘブル人への手紙』において、イエス様が「大祭司」として描かれていますので(9章)、罪のゆるしのためにとりなすことはイエス様にふさわしいことでもあると言えます。
ですので、結論としましては、オリジナルの写本にはなかったとしても、イエス様の生涯における言動と矛盾はしないということです。しかし、それが実際に十字架上で言われたのかどうか、というのはまた別の問題になってくるのではないかと思います。つまり、十字架にかけられたまま瀕死の状態でそのように言われたのだ、と強調し過ぎてしまうと、それはそれで脚色が強めということになってしまいかねないということです。
このような「読み込み過ぎてしまう」問題というのは、結局のところバランスが大切です。ですが、なかなか難しい問題でもあります。正解はないと言ったらそれまでですが、この箇所の背景にはそのような事情もあると思って読むことで、理解が深められたり、あるいはより慎重に読めるようになるのではないかとも思います。
コメント