聖書はどこから読み始めればいいの?

誰もが最初に直面する課題です。文字通り最初の創世記からから、はたまた、イエス・キリストが出てくる新約聖書から。

正解はありません。好きなところから読み始めたらよいのではないでしょうか。

それでも一つだけ知っておいてほしいことがあります。それは聖書の全体像を把握するということです。この流れがよくわかっていないと、どれだけ聖書を読んだとしても、「結局何が言いたいの?」で終わってしまうなんてことにもなりかねません。

そこで、ほとんどあるいは全く聖書を読んだことはないけれども、関心を持っているという方向けに、聖書の全体像を簡単にご説明いたします。少しでも参考になれば嬉しいです。


聖書は、数千年にわたる多様な文学形式の集積でありながら、一つの極めて強固な「マクロ・ナラティブ(大きな物語)」を有しています。その物語を読み解く鍵となる概念が「神の住まい」すなわち「神殿」です。

一般的に神殿といえば「宗教的な建物」を想起させますが、聖書神学における神殿とは、「聖なる神の臨在と、不完全な人間とが交差する場」という空間的・実存的な意味を持ちます。この「神殿」という視座から聖書の全体像を俯瞰すると、人類の歴史がいかに一つの目的地へ向かっているかが浮かび上がってきます。

1. プロトタイプとしてのエデン ―― 最初の聖所

創世記の冒頭に登場するエデンの園は、単なる理想郷ではなく、後の神殿の「原型(プロトタイプ)」として描写されています。 神の歩む足音、東向きの入り口、命の木。これらはすべて、後のエルサレム神殿の構造と密接に呼応しています。この段階において、神と人の間には「隔て」が存在せず、存在と存在が直接的に交差する「完全な聖所」が実現していました。

2. 空間の分断と「幕屋・神殿」の制度化

人間が「罪」という自己中心性を選択したことで、この原初的な聖所は失われ、神の領域と人間の領域は分断されました。 しかし、聖書の記述において特筆すべきは、神がその分断を放置しなかった点です。荒野における「幕屋」、そして「エルサレム神殿」の建設は、分断された世界の中に「限定的な再会の場」を制度化するという、神側のあわれみに満ちた譲歩でした。その時定められた儀式や犠牲のシステムは、不完全な人間が聖なる存在に近づくための、論理的かつ法的な「調停のプロセス」であったと解釈できます。

3. 受肉によるパラダイムシフト ―― 身体化された神殿

この「建物としての神殿」という概念を根本から覆したのが、ナザレのイエスの登場です。 『ヨハネの福音書』は、キリストが「私たちの間に住まわれた(=幕屋を張られた)」(1:4)と記述しています。ここでは、局所的な「場所(Place)」としての神殿から、イエスという「人格(Person)」そのものが神殿となるという、劇的なパラダイムシフトが起きています。神殿はもはや固定された場所ではなく、歴史の中を歩む「身体」となったのです。

4. 聖霊の内住 ―― 「場所」から「人格」への移転

キリスト以降、神殿概念は決定的な転換を迎えます。神の臨在は特定の建物に限定されるのではなく、信じる者の「内側(人格)」へと移転します(1コリ6:19等)。これを神学用語で「聖霊の内住」と呼びます。

この概念は、私たちの生き方に二つの本質的な変化をもたらします。

「対話」としての誠実さ: 「自分の人生と向き合うこと」は、そのまま「内に住まわれる神と向き合うこと」を意味します。誠実に生きようとする努力は、義務感からではなく、内に住む神への「人格的な応答(レスポンス)」へと変わるのです。

「空間」からの解放: 神と出会うために特定の場所へ行く必要はなくなりました。あなたの日常のあらゆる場面――仕事、休息、思索のすべてが、神と交差する「聖所」となります。

5. 終末論的な完成 ―― 宇宙的神殿への統合

聖書の最終章である「新しい天と地」において、物語は完結します。そこにはもはや、特定の「神殿」という建物は存在しません。 なぜなら、神の臨在が世界全体を満たし、宇宙そのものが一つの巨大な神殿へと統合されるからです。エデンで失われた「直接的な交わり」が、「幕屋→神殿→キリスト→信仰者」というプロセスを経て、より高度な次元で回復される。これが、聖書が提示する歴史の終局的なヴィジョンです。


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