後藤敏夫『神の国を生きる キリスト教生活共同体の歴史』(いのちのことば社、2021年)
本書は、キリスト教の歴史の中で繰り返し興されてきた「神の国を生きる共同体」に着目し、その変遷を辿ります。その目的について、冒頭でこう述べられています。
この歴史の旅の目的は、時代の断層を貫いて流れる霊の地下水につながる生活共同体を通して、神が人類の歴史になさっている贖いのみわざを見定めながら、私たちが「異なる者がキリストにあって互いに愛し合ってひとつになる」という神の創造目的に生きる信仰と知恵を学ぶことにあります。(3頁)
本書は全21章からなり、世界各地のキリスト教共同体を紹介しています。ただし最初の4章では、それに先立って、聖書における共同体のビジョンが示されます。この部分は、著者による聖書全体の要約にもなっています。つまり著者は、「共同体」を聖書全体を貫くテーマの一つとして読んでいるということです。
各章の内容は以下の通りです。
【聖書編】
第1章 エデンの園における共同体——聖書の人間観と創造の目的
第2章 イエスと弟子たちの共同生活——神の国の福音と新しい神の民
第3章 初代教会における愛の交わり——聖霊が力をもって臨むとき
第4章 新天新地における愛の交わりの完成——エデンから新しいエルサレムへ
【実践編】
第5章 初期キリスト教(1)——愛に生きる教会共同体
第6章 初期キリスト教(2)——聖餐と愛餐に生きる教会共同体
第7章 修道院の起源——祈りと労働のリズムの回復
第8章 修道院制度の確立——ベネディクト修道院
第9章 フランシスコとフランシスコ会(小さな兄弟会)
第10章 ヴァルド派(リヨンの貧者)——正統と異端の間
第11章 ベギン運動——世俗社会と修道院の間に生きる女性たち
第12章 共同生活兄弟会——「ディヴォツィオ・モデルナ」(新しき信心)
第13章 フッター派(ハッタライト)——五百年の歴史を生きる財産共同体
第14章 アーミッシュ——世と異なる生き方
第15章 モラヴィア兄弟団(ヘルンフート同胞教団)——見張りの丘の光
第16章 ブルーダーホフ(兄弟団)——信仰の継承と共同体の存続
第17章 コイノニア・ファーム——アメリカ最南部で神の国を生きる
第18章 リーバ・プレース・フェローシップ——都市のただ中で愛の道を歩む
第19章 マリア福音姉妹会——山をも動かす信仰と祈り
第20章 テゼ共同体——小さく貧しい和解のパン種
第21章 真の共同体のしるしと挫折の原因——過去をふりかえり将来を見る
このように、本書は十数の共同体を取り上げていますが、本記事でそのすべてを紹介することはできません。ここでは、聖書編から実践編への橋渡しとなる初期教会の記述、実践編から修道院とフッター派の二つ、そして全体を振り返る最終章を中心に取り上げます。
聖書編から実践編へ
第5章からは「実践編」です。その目的について、著者はこう述べています。
初期キリスト教から現代に至るキリスト教の歴史における生活共同体をとりあげ、聖書編を土台にして、神の歴史の中に今日の信仰共同体のあり方を位置づけることが実践編の目的です。それによって、神の民が「異なる者たちがキリストにあって互いに愛し合う」共同体として、この時代に召し出され、遣わされてある意義や役割を考えたいと思います。(49頁)
もっとも、著者は初代教会を「理想化するのは正しくありません」とも述べています(52頁)。使徒の働き2章・4章に描かれた財産共有については、批判的な研究者の多くが著者ルカによる理想化された要約と見る一方、保守的な研究者は初期エルサレム教会の実際の姿を反映していると考えます。著者の立場は、理想化を退けながらも、そこに今日学ぶべき実践を見るものと言えます。なお、使徒の働きに描かれた財産共有の性格については、過去の記事「初代教会の分かち合いは共産主義だったのか」で取り上げました。
そのうえで著者は、現代のプロテスタント教会に対して、次のように指摘します。
聖書のみを標榜するプロテスタント教会は——歴史的な伝統を持たない教会はとりわけ——二千年の教会の歴史を越えて、直接聖書に結びつこうとする傾向があります。過去の教会の歴史的遺産や先祖の言い伝えよりも、みことばそのものに聴くあり方は正しいのです。しかしその際、聖書を語っているつもりの自分たちもまた時代の子であり、時代を支配する霊で聖書を読んでいることに無自覚であることがあり得ます。(56-57頁)
聖餐と愛餐
本書の内容は、著者が北海道の余市惠泉塾で経験したことと深く関わっています。そこでは毎主日に聖餐が行われ、その前に愛餐も行われていました。しかも愛餐は、礼拝式の一部として位置づけられていたそうです。
愛餐を礼拝式の中で行い、その同じ食卓で主の聖餐に与る教会が他にあるか、寡聞にして私は知りません。(58頁)
愛餐とは、教会でともにする食事を指す言葉です。ただし著者は、それを単なる食事以上のものとして捉えています。
愛餐はただの食事のことではなく、互いに愛し合ってひとつになる生活全体の集約ですから、(愛せない苦しみや戦いを含めて)愛の生活なくして聖餐はなく、悔い改めの聖餐なくして愛の生活はないとも言えます。(63頁)
聖餐と愛餐を同じ食卓で行うことは、初期キリスト教会が大切にしていたことでした。しかし歴史の中で、両者は次第に分離されていきます。現在、少なくとも日本の教会では、両者を一つの礼拝の中で行う例はほとんど見られないように思います。
修道院:祈りと労働のリズム
実践編で最初に大きく取り上げられるのが修道院です。現代でもよく知られている共同体の形と言えます。その特徴を一言で言い表すなら、「祈りと労働のリズムの回復」です。
修道院は、聖書的時間観に基づく、日毎、週毎、年毎の生活リズムを回復しようとしました。すべての時間は神に属するものなので、神に仕え、神に栄光を帰すために時間を用いるときにのみ、私たちの時間は本来の意味を見出すと考えました。修道院は、この世に奪い取られた時間の贖いを目指したのです。それを時間の聖化とも言えるでしょう。具体的には、人間創造の目的である祈りと労働のリズムを回復しようとしたのです。それは人間創造の目的の回復でもあります。(71頁)
修道院は、現代、とりわけプロテスタント教会においては、縁遠いものと思われがちです。しかし、修道院が残した遺産は、今日のすべてのクリスチャンにとって有益なものです。とくにここで挙げられている「祈りと労働のリズムの回復」は、現代人にとって切実な課題だと思います。忙しい日々の中で神を見上げて感謝し、汗を流して働く。そうした生活のリズムから、私たちが学べることは少なくありません。
なお、修道院の知恵を現代の生活に生かそうとする本として、ケン・シゲマツ『忙しい人を支える賢者の生活リズム』(いのちのことば社、2015年)があります。本書の修道院の章とあわせて読むと、理解がいっそう深まると思います。
再洗礼派とフッター派
もちろん、修道院だけが共同体ではありません。その後の歴史の中では、「修道院のような終身の誓約に縛られることのない自発的な意志に基づく聖徒の交わり」(114頁)を目指す人々も現れます。
その流れは、やがて宗教改革期の再洗礼派(アナバプテスト)へと受け継がれます。ここで著者は、プロテスタント主流派に対して率直な指摘をしています。
宗教改革がヨーロッパ各地に広まると、種々の国家、領邦、都市がカトリック教会から離脱し、宗教改革を導入するようになります。それによって、ルターやカルヴァンの改革運動から生まれたプロテスタント教会(ルター派、改革派)もまた、カトリック教会と同様に世俗権力と結びついた国教会を形成することになりました。そのようなプロテスタント主流派からは生活共同体は生まれませんでした。(121頁)
ここで、先に引いた指摘が思い起こされます。プロテスタント教会は、自分たちもまた「時代の子」であることに無自覚であり得る、というものです。聖書に立ち返ることを掲げた宗教改革の教会も、世俗権力と結びついた国教会という当時の枠組みからは自由ではありませんでした。
それでは、共同体の流れはどこへ向かったのでしょうか。著者はこのように述べます。
最初期教会に端を発するキリスト教生活共同体の霊的地下水は、同時代人からは「熱狂主義者」「反乱者」「異端」とされ、歴史家が「宗教改革急進派(左派)」と呼ぶ再洗礼派に流れます。(122頁)
当時は異端とされたこの群れが、後の時代に果たした役割についても、著者は次のように述べています。
再洗礼派のセクトは、個々人の自発的な契約において形成されますが、その信仰は国教会に対する今日の自由教会の流れにつながり、信教の自由や結社の自由、政教分離等の原則に基づく西欧近代社会の成立に大きく寄与しました。(122頁)
再洗礼派のうち、五百年を経て今日まで存続している共同体の一つがフッター派(ハッタライト)です。1528年、モラヴィアのニコルスブルクを離れる際、執事に選ばれた二人が皆の前でマントを広げると、一人ひとりが強制されてではなく自発的に、所有する全財産をその上に置いたといいます。この年が、財産共同体としてのフッター派の創立年とされています(125頁)。著者は、この財産共有の性格を次のように説明しています。
財産共有は「使徒の働き」に記されている最初期キリスト教徒のあり方に倣うものでしたが、理念から始められたことではなく、現実の必要を前にしての愛に促された実践的決断でした。(125頁)
興味深いのは、著者がこの共同体を美化していないことです。指導者たちが上等な衣服を着て贅沢な食事をする一方で、一般の信徒が食料不足で子どもを亡くすという事態が起こり、それを批判した人々との間で共同体は分裂します。その批判者自身がお金を隠し持っていたことも記されています(125頁)。
また、財産の拠出を義務として強制するのか、信徒の自発性に委ねるのかをめぐって、指導者の間で激しい対立が起こりました。これについて著者はこう述べています。
問題の根本は、どちらが聖書的かということよりも、生活の現実の中での自分を犠牲にする愛と、主と互いへの従順の要請にあるように思われます。(126頁)
この対立は、使徒の働き5章でペテロがアナニアに語った言葉と重なります。地所を売るかどうかも、売った代金をどうするかも、本人の自由だったからです(この点も前掲の記事で扱いました)。
さらに著者は、現在のフッター派について次のように記しています。
現在のフッター派は、自分たちの信仰の形式と固有の文化に固執し、世から隔絶された生活を送っています。(129頁)
ちなみに、栃木県大田原市には日本のフッター派共同体があるそうです(129頁)。章の結びには、ある再洗礼派クリスチャンの次の言葉が引かれています。
生活においてキリストに従うことなしには、だれも真の意味でキリストを知ることはできない。(129頁)
このほか、アーミッシュ、モラヴィア兄弟団、ブルーダーホフ、テゼ共同体など、近現代の共同体についても、それぞれ章ごとに紹介されています。
真の共同体のしるしと挫折の原因
最終章では、これまでの歴史を振り返り、「真の共同体のしるし」と「失敗と挫折の原因」がまとめられます。
しるしとして挙げられるのは、神の愛と人間相互の愛、聖さ、主の弟子となること、分かち合い、秩序のための仕組み、権威、預言者的な指導者、証しの生活の八つです。たとえば「聖さ」について、著者はそれを「人を分け隔てしない完全さ」と言い換えています。
「完全さ」や「聖さ」を語るこれらの聖句は、いずれも道徳的に完璧であることではなく、人を分け隔てしないことに結びついています。(195頁)
また、弟子訓練についてはこう述べられています。
弟子訓練は、信徒の管理や教勢拡大を目的とするものではなく、天の父に似るように召された神の子として愛し合うための共に生きる生活の中での訓練です。(196頁)
一方、挫折の原因は十二挙げられています。その一つが「過度の組織化」です。
過度の組織化は皮袋から柔軟性を奪います。制度的な管理は、共同体に霊性の枯渇をもたらします。(199頁)
ほかにも「伝道熱心であり過ぎること」「閉鎖的であり過ぎること」「不満の蓄積」「指導者のプライド」などが並びます(199-201頁)。なお、この章は Trevor J. Saxby の Pilgrims of a Common Life(1987年)に大筋で依拠していると注記されています(203頁)。
中でも目を引くのは、「この世と関わりすぎること」と「閉鎖的であり過ぎること」のように、相反する原因が並んでいることです。世との関わりが強すぎても、弱すぎても、共同体は崩れていきます。これに対して著者は、組織運営上の工夫を答えとはしていません。
聖霊が共同体に行き巡ると、この落とし穴を避ける狭い道を示されます。信仰共同体は「かしら(であるキリスト)にしっかり結びつい」ている(コロサイ2・19)かぎりにおいて、聖霊にあって健全に機能します。(202頁)
著者の二つの願い
最後に著者は、本書を執筆した思いと願いを二つ記しています。
一つは、教会が制度化し閉塞状態に陥ったとき、神は「いつも時代の荒野に徹底して主に従おうとする預言者とその信仰共同体を興された」ということです(202頁)。そうした群れは、その時代の正統派から異端視されたり、カルトと見なされたりすることもありました。それでも著者は、次のように述べます。
しかし、新しい時代の神の歴史につながる活ける水の流れが、荒野に湧き出た小さな泉から流れ出ることも多かったのです。(202頁)
冒頭で語られた「霊の地下水」という言葉が、ここで再び現れています。
もう一つは、ブルーダーホフの創始者エーバハルト・アーノルトの言葉です。著者は、これを自ら訳して引いています。
ひとつのコミュニティーがその独自の務めを認識すればするほど、自分たちが「ウナ・サンクタ」(ひとつの聖なる教会)に属さなければならないことを深く意識するようになる。ひとつのコミュニティーはより大きな有機体の一部であるから、からだ全体に仕えることから生じるへりくだった交わりを必要とする。(203頁)
ぼくどくメモ
本書を読み終えて改めて考えさせられたのは、「共同体」が教会にとっておまけの活動ではない、ということです。
日本の教会で「交わり」と言うと、礼拝後のお茶の時間や愛餐会のように、礼拝に付随する活動として理解されることが多いように思います。しかし本書の聖書編が示しているのは、エデンの園から新しいエルサレムに至るまで、神が「異なる者がキリストにあって互いに愛し合ってひとつになる」民を形づくってこられた、という一貫した物語です。そうであるなら、共同体は救いの結果として後から生じるものではなく、救いそのものの形だということになります。
もっとも、本書に登場する共同体の多くは、生活と財産を共にする「生活共同体」です。地域教会に集う多くの信徒にとって、すぐに真似のできる形ではありません。それでも、本書では私たちも実践できうる一つの手がかりが示されています。著者は「分かち合い」について、愛餐の食卓で分かち合われるのは財産や食物だけでなく、それぞれの時間や思いでもあると述べ、こう続けます。
心の奥にある思いを分かち合うことは、制度的に財産を共有するよりも、はるかに深く、難しいことです。(196頁)
つまり、財産共有という目に見える形をとらない教会にも、より深く、より難しい分かち合いが問われているということです。
その分かち合いを阻むものの一つが、挫折の原因に挙げられている「不満の蓄積」だと思います。著者によれば、誰もが共同体に完全さを求め、自分の属する共同体がそうでないことを知ると不満を感じます(201頁)。そこで引かれるボンヘッファーの『共に生きる生活』の言葉は、生活共同体に限らず、あらゆる教会に向けられたものとして読むことができるでしょう。
キリスト者の交わりそれ自身よりも、キリスト者の交わりについての自分の夢を愛する者は、たとえ個人的には正直で、真面目で、犠牲的な気持ちで交わりのことを考えたとしても、(結局は)すべてのキリスト者の交わりの破壊者となるのだ。(201頁)
また、著者が「聖さ」を「人を分け隔てしない完全さ」と言い換えていることも注目したいと思います。
共同体と聞くと、価値観や背景の似た人々が集まる居心地のよい場所を思い浮かべがちです。しかし新約聖書の教会は、ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人、富む者と貧しい者が同じ食卓に着く場でした。パウロがコリント教会の主の晩餐の乱れを厳しく問題にしたのも、その食卓で富む者と貧しい者が分断されていたからです(第一コリント人11:17-34)。初期のフッター派に、貧しい者からカトリック司祭、修道僧、貴族、農民、職人まで、多様な社会的背景を持つ人々が加わっていたことも(126-127頁)、その一つの表れと言えるかもしれません。異なる者が一つの食卓を囲むことそのものが、教会がキリストの体であることのしるしだと言えるでしょう。
そして、アーノルトの言葉は本書の結びにふさわしいものだと思います。ある共同体が自らの召命を強く意識すると、自分たちこそが真の教会だという排他性に陥りがちです。実際、フッター派の歩みにも、自分の率いる群れこそが唯一の神の共同体だと確信した指導者の姿が描かれています(126頁)。しかし、自ら共同体を創始したアーノルトが語ったのは、それとは反対の認識でした。独自の務めを自覚するほど、自分たちが「より大きな有機体の一部」にすぎないことを知るというのです。そこで求められるのは「からだ全体に仕えることから生じるへりくだった交わり」です。これは生活共同体だけでなく、一つひとつの地域教会にも向けられた言葉だと言えます。
著者は本書を、次の言葉で閉じています。
この歴史の旅のむすびは、私自身にとって新しい旅立ちへのひらきです。(203頁)
本書は、キリスト教生活共同体の歴史を紹介する本であると同時に、私たちが日々集っている教会とは何なのかを問い直す本でもあります。共同体のあり方に関心のある方だけでなく、教会の交わりについて考えている方にとっても、得るところの多い一冊です。
参考文献:後藤敏夫『神の国を生きる キリスト教生活共同体の歴史』(いのちのことば社、2021年)
