本書の構成
本書は、上智大学キリスト教文化研究所が毎年秋に開いている聖書講座のうち、2024年度の講演をまとめたものです。講座の総合テーマは「信仰と行為」で、「神の働きと人間の応答の関係」という副題が付いています。講演者は三人で、山口希生氏がパウロのアブラハム理解を、江口再起氏がルターにおける恵み・信仰・行為を、川中仁氏がイグナチオ・デ・ロヨラの信仰をそれぞれ論じています。
まえがきによれば、江口氏の講演は、「信仰のみ」というルターの標語が行為の軽視につながったという誤解を取り上げ、神の恵みがあってこそ人間の応答があるというルターの真意を示すものです。川中氏の講演は、イグナチオの自叙伝から聖書的信仰の特徴を考察しています。新約聖書学、ルター研究、カトリックの霊性という三つの立場から一つの主題を扱っている点が、本書の特徴です。
本記事では、このうち山口氏の講演「アブラハムの信仰をめぐって:パウロはアブラハム物語をどう読んだか」を中心に紹介します。
パウロとヤコブのアブラハム理解
キリスト教の伝統では、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれてきました。この呼び方は、パウロがアブラハムを、無割礼のまま信じる人々を含む「すべての人の父」と述べていること(ローマ4:11、16)に基づいています。ところが、アブラハムが何によって義とされたのかについて、新約聖書には二通りの記述があります。
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
ローマ人への手紙4:2-3(口語訳)
わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
ヤコブの手紙2:21(口語訳)
パウロが根拠とするのは創世記15章で、ヤコブが取り上げるのは創世記22章のイサク奉献(ユダヤ教の伝統では「アケダー」と呼ばれます)です。引用する箇所が異なるため、二人は信仰と行いの関係について反対の結論に至っているように見えます。この食い違いに対して、ルターは、信仰のみによる義認を重んじる立場から、ヤコブの手紙を「藁の書」と評しています。以来、「信仰」と「行い」を対比する理解は、プロテスタントの伝統の中で広く受け入れられてきました。
山口氏はここで、新約聖書以前のユダヤ教文献の多くが、アブラハムの信仰の頂点をアケダーに見ていたことを指摘します。第一マカバイ記2章52節やシラ書44章20節は、アブラハムが「試練において忠実であることが見出された」と称えています。新約聖書の中でも、ヘブル人への手紙11章17〜19節がアケダーを信仰の模範として描いています。つまり、アケダーにアブラハムの信仰を見るヤコブの読み方は、当時の主流だったことになります。
これに対して、パウロはアケダーに言及していません。その理由を問うことが、論文の中心的な課題です。伝統的には、アケダーは「行い」と結びついているので、「信仰のみによる義認」を説くパウロには使いにくかったのだと説明されてきました。山口氏はこの説を採らず、パウロが懸念したのは、すでに割礼を受けていたアブラハムが異邦人信徒の模範とされてしまうことだったのではないか、という見通しを論文の冒頭で述べています。
「信仰」対「行い」の再検討
この問いに答える前に、論文はパウロ神学における信仰と行いの関係を、近年の新約聖書学の議論を踏まえて見直します。
その手がかりの一つが、日本語訳聖書の訳語の違いです。ローマ人への手紙3章27節は、最近の二つの翻訳で次のように訳されています。
聖書協会共同訳:では、誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
新改訳2017:それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。
同じギリシア語「ノモス」を、聖書協会共同訳は「法則」、新改訳2017は「律法」と訳しています。ただし、どちらの翻訳も脚注でもう一方の訳語を示しています。聖書協会共同訳は「どんな法則」の箇所に別訳「律法」を、新改訳2017は「原理」「法則」という訳を挙げています。両訳の違いは、どちらの読みを本文に採るかの違いです。山口氏は、ローマ書のノモスを一貫して「律法」と読むことで、パウロが同じ律法を二つの観点から描いていることが見えてくると指摘します。律法は、罪に悪用されると「罪と死の律法」になり、神の霊の導きのもとでは「命と霊の律法」になるということです。そこから導かれるのが次の結論です。
パウロの律法についての議論を理解する上で重要なのは、「信仰」対「行い」という図式ではなく、むしろ「肉」と「霊」との対比である。(32頁)
さらに論文は、「信仰」と訳されるギリシア語「ピスティス」が、頭の中で何かを信じることにとどまらず、相手を信頼し、忠実に従うことを含む言葉だと論じます。日本人に分かりやすい例として、加藤隆氏が武士の主君に対する「忠義」を挙げていることも紹介されています。パウロにとって信仰と行いは、受け身と能動という対立ではなく、切り離せない関係にあったというのが論文の理解です。
信仰と疑いの対比
このようにピスティスを理解したうえで、論文はアブラハムの信仰が何と対比されているかを、次のように述べています。
アブラハムの生涯全体にわたる信仰は、常に「行い」ではなく「疑い」と対比されていた。神がアブラハムに求め続けた信仰とは「行いなしの受け身の信仰」ではなく、「疑いを乗り越える信仰(信頼)」だったからだ。(68頁、太字は原文の傍点)
論文によれば、アブラハムの信仰は創世記15章で完成していたわけではありません。続く16章で、アブラハムは妻サライの提案に従い、女奴隷ハガルによって子を得ようとします。論文はこれを、年老いた妻からでも子を与えることのできる神の力と約束を信じきれず、自分の手段で子を得ようとした行為と見ています。17章でも、アブラハムは百歳の自分と九十歳のサラに子が生まれると聞いて笑っています。こうした疑いを最終的に乗り越えたのが、22章のアケダーだったというのが論文の理解です。
そうであれば、アケダーは「行い」の例ではなく、疑いを乗り越えた信仰の表れということになります。すると、アケダーは「行い」と結びついているのでパウロは避けた、という伝統的な説明は成立しにくくなります。
そこで、論文が手がかりとするのは、次のパウロの言葉です。
それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。
ローマ人への手紙4:10(口語訳)
創世記15章のアブラハムはまだ割礼を受けておらず、22章のアブラハムはすでに割礼を受けていました。割礼がなぜそれほど重要な問題だったのかについて、論文は、創世記に描かれた契約の構造を一つずつたどり、さらに異邦人がどうすればユダヤ人になれるのかをめぐる当時のユダヤ人の議論や、ガラテヤ書4章でパウロがイシュマエルとイサクを二つの契約になぞらえている箇所(21〜31節)を検討して説明しています。論証の詳細は本書に譲ります。
こうした検討を踏まえて山口氏は、パウロがアケダーに触れなかったのは、信仰と行いを切り離すべきだと考えたからではないと述べます。アケダーで示された、疑いを乗り越える信仰そのものは、すべての信仰者の模範となるものです。しかしパウロは、異邦人信徒がアブラハムの割礼にまで倣うことは望みませんでした。そのためにあえてアケダーに言及しなかったとして、山口氏はそこにパウロの「牧会的配慮」を見ています。
なお、この講演の背景には、ローマ書4章1〜2節の「誇り」を論じた山口氏の論文(『新約学研究』48号、2020年)があります。あわせて読むと、議論の流れを追いやすくなります。
ローマ書8章32節とアケダー
最後に、パウロが本当にアケダーに沈黙しているのかどうかについて、関連する議論を一つ紹介します。
論文は、パウロ書簡にはアケダーへの「直接の」言及はないと述べています。ただ、ローマ書8章32節の「ご自身の御子をさえ惜しまないで」は、創世記22章16節の「あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかった」と、七十人訳ギリシア語でも同じ動詞が使われています。
この点についてN・T・ライトは、パウロがここで創世記22章を意図して指していることはほぼ確実だと述べています。
God then declares that because Abraham did not spare his beloved son (the LXX is almost identical to Paul’s wording here, making it effectively certain that he intends the allusion), he would bless him enormously, with his seed inheriting the world and possessing the lands of their enemies.
神はその後、アブラハムが愛する子を惜しまなかったので(七十人訳はここでのパウロの言葉遣いとほとんど同じであり、パウロがこの暗示を意図していることは事実上確実である)、彼を大いに祝福し、その子孫が世界を受け継ぎ、敵の地を所有するようにすると宣言する。
N. T. Wright, [Into the Heart of Romans: A Deep Dive into Paul’s Greatest Letter] (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2023), 187.
ライトはさらに、ローマ書4章との結びつきを指摘します。4章25節の「死に渡され」と8章32節の「死に渡された」は同じ動詞であり、4章13節の「世界を相続させるとの約束」は、創世記22章15〜18節で誓いとともに改めて語られた約束だというのです。そのうえで、次のように結論しています。
So my sense is that Paul here sees Genesis 22 as an oblique forward pointer to the fulfilment of the Abrahamic covenant in the death and resurrection of God’s beloved son, not least in order to tie together the exposition of God’s covenant faithfulness in chapters 1–4 with the exposition of the consequent security of God’s covenant family in chapters 5–8.
したがって私の考えでは、パウロはここで創世記22章を、神の愛する子の死と復活においてアブラハム契約が成就することを、前もって遠回しに指し示すものと見ている。それはとりわけ、1〜4章で説かれた契約への神の真実と、5〜8章で説かれた、その結果としての神の契約の家族の確かさとを結びつけるためである。
Wright, Into the Heart of Romans, 187–88.
創世記でひとり子を惜しまなかったのはアブラハムですが、ローマ書で御子を惜しまなかったのは神ご自身です。ライトの読みに従えば、パウロはアケダーを用いていることになります。ただしそれは、信仰者が倣うアブラハムの模範としてではなく、御子を与えた神の行為を指し示すものとしてです。この読み方でも、割礼を受けたアブラハムが異邦人信徒の模範として示されることはありません。そのため論文の結論とは矛盾せず、パウロがアケダーをどう扱ったかを補う視点になると思います。
ぼくどくメモ
プロテスタント教会では、「信仰」対「行い」という考え方が、もはや自明と言ってよいほど浸透しています。その中で、本書が持つ意味は大きいと思います。ちょうどこの記事を書いているのは、宗教改革記念の10月です。その意味では、ルターについて再考することも重要かもしれません。ルターがヤコブ書を「藁の書」と呼んだことは有名ですが、この表現は後の版の序文からは削除されています。また、『キリスト者の自由』などを読んでも、ルターが「行い」を軽んじているようには思えません。そして本書は、パウロが批判した「行い」が善行一般ではなく、割礼に代表される律法の行いであったと論じています。どちらも、「信仰」対「行い」という単純な図式を見直させるものです。信仰さえあれば何をしてもよいという極端な解釈に陥ることなく、生き方としての行いについても深く考えていきたいと思わされます。
