はじめに

詩篇100篇2節は、口語訳で「喜びをもって主に仕えよ」と語ります。日本語の「仕える」は、主君と家来、主人と使用人といった上下関係を思い起こさせる言葉です。そのため、「主に仕えよ」と聞くと、神に従属することを求められているように受け取られることもあるでしょう。

しかし、ここで「仕える」(עבד)と訳されているヘブル語の動詞「アバッド」は、日本語の「仕える」よりも広い意味を持っています。そして、その広がりをたどっていくと、この言葉では「何をするか」以上に、「誰に仕えるか」が問われていることが見えてきます。

「耕す」から「礼拝する」まで

この動詞の基本的な意味は「働く」ことです。もともとは「土地を耕す」という意味だったのではないか、とも言われます(HALOT)。実際、創世記2章15節では、神が人をエデンの園に置き、「これを耕させ、これを守らせられた」とあります。この「耕す」が、詩篇100篇の「仕える」と同じ動詞です。

「アバッド」は、日々の労働にも、主人のもとで奴隷として働くことにも、王に服することにも、そして神を礼拝することにも使われます。NIDOTTEによれば、「主に仕える」という言い回しは旧約聖書に56回出てきます。そのいずれもが、礼拝や、契約の民として忠実に歩むことを指しています。詩篇100篇2節も、そのうちの一つです。

つまり、ヘブル語では、畑を耕すことも、主人のもとで働くことも、神を礼拝することも、同じ一つの言葉で表されていることになります。

エジプトでの「仕える」

「アバッド」が、神に仕えることとは対極の意味で使われているのが、出エジプト記の冒頭です。

エジプトびとはイスラエルの人々をきびしく使い、つらい務をもってその生活を苦しめた。すなわち、しっくいこね、れんが作り、および田畑のあらゆる務に当らせたが、そのすべての労役はきびしかった。

出エジプト記1:13-14(口語訳)

ここで「使い」「労役」と訳されている語も、動詞「アバッド」とその名詞形です(新改訳2017では「労働」)。エジプト人は、イスラエルの人々を「仕えさせた」のです。さらには、この短い二節の中に、この動詞とその名詞形が五回も繰り返されています。そして、その描写は二度にわたって「きびしく」(בפרך)と形容されています。この「きびしく」という語は、旧約聖書全体で六回しか使われない語ですが、この語については、後述します。

ここでの「仕える」は、人がほかの人の利益のために、自分の意思に関係なく働かされることを意味しています。

「わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい」

そのイスラエルを救い出すために、神はモーセをファラオのもとに遣わします。そのとき、モーセがファラオに告げるように命じられたのは、次の言葉でした。

主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう。

出エジプト記4:22-23(口語訳)

ここには、出エジプトの出来事全体を通して重要な問いが示されています。それはすなわち、イスラエルの民は誰の子なのか、誰に属するのか、という問いです。ファラオは、神の長子である民を、自分の奴隷としていました。それに対して神は、イスラエルは「わたしの長子」であると宣言し、その民を取り戻そうとします。

そして、その目的として語られているのが、「わたしに仕えさせなさい」です。神はモーセを召した場面でも、「あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」と告げていました(出エジ3:12)。出エジプトは、イスラエルを「仕えること」そのものから解放した出来事ではありません。ファラオに仕えることから神に仕えることへ、「誰に仕えるか」が変わる出来事だったのです。

主人が替わっただけなのか

このように聞くと、結局は仕える相手がファラオから神に変わっただけではないか、と思われるかもしれません。しかし、旧約聖書には、同じ「仕える」という言葉の中に、まったく異なる「仕え方」が描かれています。

一つ目は、子として仕える姿です。出エジプト記4章22節で、神はイスラエルを「奴隷」ではなく「わたしの子」と呼んでいました。マラキ書3章17節にも、次のような言葉があります。

万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

マラキ書3:17(口語訳)

ここでも「仕える」は同じ動詞ですが、仕えているのは奴隷ではなく子です。その上同じ節で、神は彼らが「わたしの者となり、わたしの宝となる」と語っています。神のもとでの「仕える」ことが、親のもとにいる子の姿として描かれているのです。

二つ目は、愛のゆえに選び取る「仕える」です。律法には、主人を愛する奴隷についての規定があります。

奴隷がもし『わたしは、わたしの主人と、わたしの妻と子供を愛します。わたしは自由の身となって去ることを好みません』と明言するならば、その主人は彼を神のもとに連れて行き、戸あるいは柱のところに連れて行って、主人は、きりで彼の耳を刺し通さなければならない。そうすれば彼はいつまでもこれに仕えるであろう。

出エジプト記21:5-6(口語訳)

これは現代においては多少ショッキングな描写に聞こえますけれども、要するにここでの「仕える」は、強いられたものではなく、自ら選んだものだということです。NIDOTTEも、この規定について、奴隷が憎むのではなく愛するようになった主人のもとで、生涯仕えることを選ぶことができた、と説明しています。また、エデンの園での「耕す」についても、それがファラオのもとでの強制労働のようなものであったことを示すものはない、と指摘しています。

三つ目は、詩篇における対比です。詩篇2篇11節は、主に逆らおうとする地の王たちに向かって、「恐れをもって主に仕え」と命じます。それに対して100篇2節は、「喜びをもって主に仕えよ」と語ります。同じ動詞が、「恐れ」とも「喜び」とも結びついているのです。

そして、詩篇100篇は、2節で「仕えよ」と言ったすぐ後で、3節で「われらは主のものである」と続けます。誰に仕えるのかという問いと、誰に属するのかという問いが、ここでも組み合わされています。

「きびしく」という言葉

最後に、先述した出エジプト記1章の「きびしく」(בפרך)について改めて触れたいと思います。この語は旧約聖書に六回しか出てきません。しかも、そのすべてが、人が人をどのように扱うかについて使われています。その用例をたどると、一つの線が見えてきます。

レビ記25章は、同胞のイスラエル人が貧しくなり、身を売った場合の扱いを定めています。

彼らはエジプトの国からわたしが導き出したわたしのしもべであるから、身を売って奴隷となってはならない。あなたは彼をきびしく使ってはならない。あなたの神を恐れなければならない。

レビ記25:42-43(口語訳)

ここで、エジプトの「労役」を形容したのと同じ「きびしく」が使われています。そして、その理由として挙げられているのが、彼らが神のしもべであることです。25章55節でも、「イスラエルの人々は、わたしのしもべだからである。彼らはわたしがエジプトの国から導き出したわたしのしもべである」と繰り返されています。神に属する者は、人に奴隷として売られてはならない。そして、神に属する者を、人がかつてのエジプトのように扱ってはならない、というのです。

ところが、エゼキエル書34章は、イスラエルの指導者たちを次のように告発しています。

あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。

エゼキエル書34:4(口語訳)

ここにも同じ「きびしく」が出てきます。しかも、ここで「治める」(רדה)と訳されている動詞は、レビ記25章43節で「使う」と訳されている動詞と同じです。訳し分けられていますが、原文ではどちらも、同じ動詞と「きびしく」が組み合わされています。つまり、神の民を養うはずの指導者たちが、律法で禁止されていたことを行い、かつてのファラオと同じように民を扱っていた、ということになります。

なお、口語訳はこの三つの箇所をいずれも「きびしく」と訳しているため、つながりが日本語でもよく見えます。新改訳2017も、出エジプト記1章とエゼキエル書34章では「過酷」で訳語を統一していますが、レビ記25章43節は「酷使してはならない」と一語で訳しています。

おわりに

「仕える」という一つの言葉は、エデンの園で土を耕すことにも、エジプトで強制的に働かされることにも、神を礼拝することにも使われます。何をしているかは同じように見えても、誰に仕えているかによって、その中身はまったく違うものになります。

詩篇100篇が「喜びをもって主に仕えよ」と語るとき、その喜びは、仕える相手がどのような方であるかに根ざしています。3節が語るように、「われらは主のもの」であり、「その牧の羊」です。そして5節が語るように、「主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶ」のです。仕えることが喜びとなるのは、仕える相手が、人を利用する者ではなく、人を養う方だからだと言えるでしょう。

そして、レビ記とエゼキエル書は、この問いがもう一歩先に進むことを示しています。レビ記25章で、同胞を「きびしく」使ってはならないとされた理由は、イスラエルの人々が、エジプトから導き出された神のしもべだからでした。かつてエジプトで「きびしく」使われていた人々が、今度は自分が人を使う立場に立ったとき、同じことをしてはならない、というのです。ここでは、誰に仕えているのかということが、人をどう扱うのかということの根拠になっていると言えます。

ところが、エゼキエル書34章において批判されている指導者たちは、その逆を行っていました。神の民を養うはずの者たちが、民を「きびしく」治め、かつてのファラオと同じ立場に立ってしまったのです。34章2節が彼らを「自分を養っている」牧者と呼んでいるように、彼らは神に仕える者であるはずが、実際には自分自身の利益に仕えていた、と言うこともできるでしょう。

こうして見ると、「誰に仕えるのか」という問いは、単なる知識や認識だけに留まるものではありません。なぜなら、人を養う方に仕えている者が、自分の利益や都合のために人を扱うことは、仕える相手と矛盾するからです。先に見たように、「主に仕える」という言い回しは、礼拝や、契約の民として忠実に歩むことを指していました。詩篇100篇の「喜びをもって主に仕えよ」という呼びかけも、その意味で、私たちが人とどのように関わるのかという問いにつながっているのです。

参考文献

  • Ludwig Koehler and Walter Baumgartner, The Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament, rev. Walter Baumgartner and Johann Jakob Stamm, trans. and ed. M. E. J. Richardson, 5 vols. (Leiden: Brill, 1994–2000).(本文中ではHALOTと略記)
  • Willem A. VanGemeren, ed., New International Dictionary of Old Testament Theology and Exegesis, 5 vols. (Grand Rapids: Zondervan, 1997).(本文中ではNIDOTTEと略記)