前編では、ヨブ記が苦しみの理由を語らないことを見てきました。
ヨブが正しい人であることは、語り手と神によって繰り返し言及されています。ヨブに災いが臨みますが、その理由は最後まで明かされません。冒頭で描かれる天上の場面を知っている読者にも、ヨブが苦しみを受ける「経緯」は示されますが「理由」は明かされません。そして、嵐の中から神が語り出したときにも、苦しみの理由には一言も触れられていません。
では、ヨブ記は何を語っているのでしょうか。苦しみの理由を求めるヨブにとって、答えを与えないのだとすれば、38章以下の長い神の言葉は何のためにあるのか。42章でヨブが失ったものを二倍にして受け取る結末は、試練に耐えた者への報いとして読んでよいのか。そして理由を知らないまま、ヨブに何が起きたのか。
後編では、これらについて考えていきます。
ヨブが及ばない領域
38章から始まる神の言葉は、一貫して「問い」の形をとっています。あなたはどこにいたのか、知っているなら告げてみよ。ヨブはこれらの問いにも答えることができません。
そして、ここで挙げられている問いには共通点があります。それはすなわち、どれもヨブには及ばない領域だということです。
まず、世界が創造された場面です。大地の基が据えられたとき、ヨブはまだ生まれていませんでした。海がどこまで来てよいかを決めたのもヨブではありません。世界の成り立ちに、ヨブは一切関わっていません。
次に、自然の営みです。雪や雹がどこから来るのか、星の運行を誰が定めているのか、ヨブは知りませんし、動かすこともできません。38章26節では、人のいない荒れ地にも雨が降ることが語られます。人が住まず、人にとって役に立たないようなその場所にも、神の配慮は及んでいます。世界は、人間のために回っているわけではありません。
動物についても同じです。獅子の獲物も、烏のひなの餌も、備えているのは神だと言われます(38章39-41節)。人間が世話をしていない生き物が、それでも養われています。
野ろばと野牛は、人間に飼いならされない動物として挙げられます。野ろばは人里の物音を嫌い、追い立てる人の声にも従いません。野牛は、力は強くとも、手綱をつけて畑を耕させることができません(39章5-12節)。家畜にできる動物とできない動物がいる。その線を引いたのはヨブではありません。
だちょうについては、その特性が神によるものだと言われます。だちょうは卵を地面に置き去りにし、踏まれることも忘れている。しかしそれは、神が知恵を授けず、悟りを与えなかったからだ、というわけです(39章17節)。人間の目には知恵がないと見える生き物も、神がそのように造られました。
ここまで挙げられてきたものを振り返ると、一つのことに気づかされます。創世記1章28節で、人間は地を従わせ、生き物を治めるようにと言われました。ところが神が示す世界には、その支配が届いていない領域がいくつもあります。ヨブは、自分が世界の管理者ではないことを、具体的な事柄を挙げることによって一つずつ示されているのです。
そして40章以下に、ベヘモットとレビヤタンが現れます。口語訳ではそれぞれ「河馬」「わに」と訳されている二頭です。神の言葉は二回に分かれており、一回目(38章1節から40章2節)では天地の成り立ちから動物まで広い範囲が扱われました。ところが二回目(40章6節以降)は、ほぼこの二頭だけに費やされます。41章は、まるまる一章がレビヤタンの描写です。捕えることも従わせることもできない生き物を長々と示したところで、神の言葉は終わります。
神はベヘモットを示すとき、これはあなたと同様にわたしが造ったものだ、と告げます(40章15節)。人間の手に負えない巨大な生き物とヨブとが、同じ被造物として並べられています。ヨブは創造主の前で、造られた者の一人にすぎません。
ヨブが応答するのは、この直後です。
塵と灰の上で
神の言葉を聞き終えたヨブは、42章6節で短く応答します。
それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。
ヨブ記42章6節(口語訳聖書)
この一節をどう読むかは、ヨブ記の理解を大きく左右します。というのも、ヨブがここで自分の罪を悔い改めたのだとすれば、友人たちの主張が部分的に正しかったことになるからです。ヨブには悔い改めるべき何かがあった、ということになります。しかし、この直後で神が下す判断は、そのようには読めないものでした。
前編で見た通り、ヨブの苦難に罪という原因はありませんでした。神も語り手も、その点について繰り返し述べています。ここでヨブが苦難の原因となった罪を認めたと読むと、ヨブ記全体の方向性と齟齬が生じます。
そこで原文を見ると、わかることがあります。口語訳で「みずから恨み」と訳されている動詞には、目的語がありません。原文に「自分を」にあたる語はなく、翻訳の際に補われたものです。ほかの訳も同じで、新改訳2017は「自分を蔑み」、聖書協会共同訳は「自分を退け」としています。英語のESVも、自分を軽んじる、となっています。
動詞そのものは、拒む、退ける、いとうといった意味を持ちます。しかし何を拒んだのかは書かれていません。自分自身なのか、それまでの訴えなのか、あるいは別の何かなのか。コンケルは、目的語が置かれていないこと自体が強調であり、ヨブの法的な主張と自分の生に対する態度の両方を含みうると説明します。
はっきりしているのは、ここが罪の告白の場面ではないということです。ヨブは苦難の原因を認めていません。神が最後まで理由を語らなかった以上、認めようもありません。
もう一つ注目したいのは「ちり灰」という語です。2章8節で、腫物に覆われたヨブは灰の中に座っていました。42章6節で悔いる場所も、同じ灰です。
この時点で、ヨブの状況は何一つ変わっていません。子どもたちは戻っておらず、体の腫物も癒えていません。財産の回復はまだ先の話です。しかし、ヨブは冒頭と同じように灰の中にいながら、訴えるのをやめました。
苦難の理由がわかったからではありません。神は最後まで理由を語りませんでした。では、何がヨブを変えたのか。その手がかりは、続く場面にあります。
神について語ることと、神に語ること
ヨブの応答に続いて、42章7節に短い場面が置かれています。神がテマン人エリファズ(口語訳ではテマンびとエリパズ)に向かい、自分の怒りがあなたとあなたの二人の友に向かって燃えると告げる場面です。理由は、彼らがヨブのようには神について正しい事を述べなかったからです。ここではヨブが、正しく語った者の基準とされています。
主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、
「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。
ヨブ記42章7節(口語訳聖書)
これは奇妙な逆転です。友人たちが語ったのは、神は正しい、神は悪を罰する、といった内容でした。その言葉だけを取れば、聖書の他の箇所とも矛盾しません。一方ヨブは、神が自分を不当に攻撃していると訴え続けていました。にもかかわらず、正しく語ったとされるのはヨブの方です。
これは、受け入れ難いことではないでしょうか。正しい教理を語った者が神に叱られ、その教理に逆らった者が認められる。このことについてコンケルは、友人たちが神について語ったことが誤りだったのではなく、彼らが直面していた現実に対処するには不十分だったのだ、と説明します。
しかし、彼らはヨブのようには正しく語らなかった、と2回も言われています(7節、8節)。このテキストを踏まえるならば、友人たちの方が「神について確かなことを語らなかった」と素直に読む方が適していると思われます。
では、友人たちが誤っていた一方で、ヨブの何が正しかったのでしょうか。対話の全体を振り返ると、ヨブと友人たちの語り方には一貫した違いがあります。友人たちは、神を三人称で語り続けます。神はこうする、神はこういう方だ。しかし、ヨブだけは、二人称で語ります。あなたはなぜ、あなたはいつまで。7章では、なぜ自分のとがをゆるさず不義を除いてくださらないのかと、神に直接問いかけます。
前編で触れた2章10節の記述も、ここにつながります。1章22節では、ヨブは罪を犯さなかったと書かれていました。2章10節では、そのくちびるをもって罪を犯さなかった、となっています。語った言葉について、わざわざ断りが加えられています。ヨブ記は、誰が何をどう語ったかに繰り返し注意を向けています。
42章7節で神が認めたのは、神について正確に語ることではありませんでした。神に向かって語り続けることです。ヨブは神に食ってかかりながら、神から離れませんでした。友人たちは神について正しく語りながら、神に向かって語ってはいませんでした。
ここに友人たちが誤っていたこと、ヨブが正しかったことの実態が浮き彫りになります。
苦しみの中で神に不満をぶつけることは、信仰から外れた行為ではありません。嘆きの詩篇にも同じ形があります。詩篇の作者たちは、神に見捨てられたと感じながら、その神に向かって訴えます。
報いではない結末
42章10節以下で、ヨブの財産は二倍になり、新たに七人の息子と三人の娘が与えられます。この結末は、しばしば「試練に耐えた者への報い」として語られます。
しかし本文は、そのようには述べていません。
まず、回復が起きた時点に注意が必要です。42章10節は、ヨブが友人たちのために祈ったときに、主がヨブの繁栄をもとにかえし、財産を二倍に増された、と述べます。回復の直前で描かれるのは、ヨブの忍耐ではなく、ヨブのとりなしです。しかも祈りの対象は、彼を苦しめ続けた三人です。
このとりなしは、ヨブが思いついた行為ではありません。42章8節で神は、友人たちに燔祭(全焼のささげ物)をささげるよう命じ、ヨブが彼らのために祈るであろうと告げます。そしてヨブの祈りを受け入れることによって、友人たちの愚行を罰しないと述べます。友人たちが赦されるために、神はヨブを間に立てました。
次に、災いを下した者の描き方が変わっています。1章と2章では、手を下したのはサタンでした。ところが42章11節で語り手は、兄弟姉妹や旧知の者たちが集まってヨブと飲み食いし、主が彼に下したすべての災いについて彼をいたわり慰めた、と述べます。前編で見た通り、使者たちが災いを告げる場面には、神もサタンも出てきませんでした。結末に至って、災いは主のものとして語られます。ヨブ記は、神の関与を否定して終わるわけではありません。
さらに、42章14節から15節に注目すべき記述があります。ヨブは娘たちの名をエミマ、ケツィア、ケレン・ハ・プクと記し、この地でヨブの娘たちほど美しい女はなかったと述べます。そして父は、その兄弟たちと同様に相続地を彼女らにも与えました。民数記27章の規定では、娘が相続するのは息子がいない場合です。ヨブには七人の息子がいます。しかも息子たちの名は一つも記されず、娘たちの名だけが残されています。ですので、失ったものがそのまま戻ってきた、という話ではないのかもしれません。
コンケルは、この結末を報いとしては読めないと明言します。神の言葉を聞いた後では、応報の原理がここで働いたとは考えられない。ヨブが受けたのは、正しく生きた者への当然の支払いではなく、神を信頼する者への恵みである。神の配慮は人間の功績に応じて配分されるものではない、というのが彼の見解です。
前編で参照したZIBBCにもこのような指摘があります。災いが逆転して終わるという型は、古代近東の物語に見られるものです。ウガリトのケレト王伝説では、子どもたちを失った王に、失われた以上のものが約束されます。ヨブ記の結末は、この種の物語がそう終わるものだから、という説明が成り立ちます。
いずれにせよ、なぜヨブに回復が与えられたのかという理由は、本文に書かれていません。理由が語られないという点で、結末は冒頭と同じです。
理由のないまま
では、理由を知らないまま、ヨブに何が起きたのでしょうか。
ヨブが求め続けたものは、はっきりしています。23章で彼は、神に会いたい、神の前で自分の言い分を述べたいと言います。31章35節では、全能者よ答えてください、と要求します。求めていたのは説明でした。なぜ自分がこうなったのか、その理由を知りたい。
ところが38章以下で神が現れたとき、説明は一つも与えられませんでした。それでもヨブは、これまで神について伝え聞いてきただけだったが今は神ご自身と向き合っている、と語ります。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
ヨブ記42章5節(口語訳聖書)
説明は得られていないのに、ヨブは満たされています。ここから一つのことが見えてきます。つまり、ヨブが本当に必要としていたのは、苦難の理由ではなく、神が自分に向き合ってくれることだったのではないか。また、ヨブ自身はそれに気づかないまま、理由を求め続けていたのではないか、ということです。
この見方を支えるのが、29章の回想です。本多峰子氏は、論文「旧約聖書の神義論―ヨブ記と詩篇の場合」でこの箇所に注目しています。
29章でヨブが回想するのは、自分が失ったものです。かつて人々から敬われていたこと、貧しい者やみなしごを助け出したことなど、まさに正しく歩んでいたことをヨブは回想しています。その中に、神との関係についての記憶があります。それは、神が守ってくれていた日々、神が自分と共にいて、家族もいた時期のことです(29章2-5節)。
神が共にいることは、申命記的な理解では物理的な平安や繁栄と結びつけて考えられることがあります。しかしヨブにとって重要だったのは、神との親しい関係そのものだった、と本多氏は述べます。神の言葉の内容以前に、沈黙していたと思われた神が自ら語りかけたという事実によって、ヨブは平安を取り戻したと考えるのが正しいだろう、とも述べています。
この論文における本多氏の結論はこのようなものです。旧約聖書における苦難の問題への答えは、なぜ善であり全能なる神が造った世界に苦難があるのかという問いの側からではなく、苦難の中にある人間に神が何をなすかという観点から、神と人間との信頼と関係性の保持のうちに与えられている。
苦しみの中で理由を求めるのは、当然のことです。ヨブも最後まで求めました。事件や事故で家族を失った人が原因の究明を望むのも、同じことです。理由を知りたいという願いを、ヨブ記は否定していません。
しかしヨブ記は、その願いが満たされない場合を書いています。ヨブは最後まで知らされませんでした。回復が与えられたときも、なぜ与えられたのかは語られません。理由の語られない苦難で始まり、理由の語られない回復で終わります。
それでもヨブは、神との関わりの中に留まりました。理由を得たからではありません。神が自分に語りかけたからです。ヨブ記が示していることは、理由に代わる何かではなく、理由がわからないままでも神との関係は続くという事実だと思います。
ぼくどくメモ
ヨブ記から教えられることの一つは、解決が得られないままでも人は生きていけるという教訓です。
牧師として苦しんでいる人と向き合うとき、もっともらしい理由を語らなければならないのではないか、と思うことがあります。もちろん、それが必要な時、それがふさわしい時もあると思います。神はこの出来事を通してあなたに何かを教えようとしておられる。ですが、それが「すべて」ではないこともまた事実です。
エリファズもビルダデもツォファルも、それぞれが真剣で、それぞれに神学的な知見に基づいた言葉を語っていました。そして、彼らの言葉が退けられたのは、神学的な理解が浅かったからではありません。答えを持たなければならないと考えたからです。
そして神は、ヨブの問いに答えるのではなく、ただ語られました。
苦しんでいる人のそばに座るとき、こちらにできることも、おそらくそれに近いのだと思います。説明を用意することではなく、そこにいて、言葉を交わすこと。もっともらしいことをいうことはある意味簡単ですが、答えを持たないまま関わり続ける方が、答えを示すよりも難しいものです。
ヨブが最後まで理由を知らなかったことを、ヨブ記はそのまま記します。この率直さが、苦しみがなくならないこの世界で、この書を読むに値するものにしているのではないでしょうか。
参考文献
- John H. Walton ed., Zondervan Illustrated Bible Backgrounds Commentary: Old Testament, vol. 5, Zondervan, 2009(ヨブ記の項はIzak Corneliusによる)
- August H. Konkel, Job, in Cornerstone Biblical Commentary, vol. 6, Tyndale House, 2006
- 本多峰子「旧約聖書の神義論―ヨブ記と詩篇の場合」『国際政経論集』第17号、二松學舎大学、2011年(二松學舎大学学術リポジトリで公開)
- Tokunboh Adeyemo ed., Africa Bible Commentary, WordAlive Publishers / Zondervan, 2006(ヨブ記の項はTewoldemedhin Habtuによる)
