ヨナと大きな魚の話は、聖書を開いたことのない人にも知られています。また、教会学校の題材としても繰り返し語られ、絵本にもなってきました。
ところが、この四章しかない短い書が何を語っているのかとなると、答えは分かれます。神に背いた預言者の物語でしょうか。宣教を拒んだ者への戒めでしょうか。それとも、まったく別のことでしょうか。
この記事では、ヨナ書をめぐって最も多く問われる問い、すなわち「これは実際にあった出来事なのか」を軸に据えます。そのうえで、この書がどのような種類の文書として書かれ、何を読者に突きつけているのかを見ていきます。
預言者ヨナという人物
ヨナ書以外で、ヨナの名が旧約聖書に現れるのは一箇所だけです。第二列王記14章25節、北王国イスラエルのヤロブアム2世(在位は前793年から753年)の時代の記述です。ヨナはガテ・ヘフェルの出身とされ、イスラエルの領土が回復されることを告げた預言者として言及されています。
なお、本記事に出てくる年代は、旧約学者ジョン・H・ウォルトンによるヨナ書の注解書(Zondervan Illustrated Bible Backgrounds Commentary: Old Testament, Volume 5、2009年)の整理に従います。
この記述には、覚えておく価値のある点が含まれています。列王紀は、ヤロブアム2世を主の目に悪を行った王として描きます。それでも、その治世に領土は回復されました。ヨナは、その回復を告げた預言者でした。つまりヨナは、国の繁栄を語る立場にいた人物です。
預言書としてのヨナ書は、他の書と形式が異なります。イザヤ書もエレミヤ書もアモス書も、その中心は預言者が語った言葉にあります。しかし、ヨナ書はそうではありません。四章のほとんどが、ヨナ自身に起きた出来事の叙述に費やされています。
ヨナがニネベで語った言葉として記録されているのは、次の一行だけです。
四十日を経たらニネベは滅びる。
ヨナ書3章4節(口語訳聖書)
ヘブル語では数単語にすぎません。旧約聖書の預言者の言葉としては、異例の短さと言えます。このことから、この書の関心が、ヨナの語った内容ではなくヨナという人物そのものに向いていることが見て取れます。
ニネベという町
ヨナが向かうよう命じられたのは、ニネベでした。これは、アッシリアの都市です。
アッシリアという国名は、旧約聖書の読者にとって特別な意味を持ちます。前722年、北王国イスラエルはこの国に滅ぼされました。ヨナが領土の回復を告げたその国が、アッシリアによって地上から消えたのです。十二小預言書の中で、ヨナ書の二つあとに置かれたナホム書は、そのニネベの滅亡を告げる書です。
この事実を頭に入れて読むと、ヨナ書は敵国への宣教の物語ということになります。そして、多くの解説書がその線で語ってきました。ただ、古代オリエントの資料に注目して聖書を読み解くウォルトンの注解書によれば、事情はもう少し複雑であることがわかります。
ウォルトンによれば、第二列王記14章25節の記述から、この書の舞台は前790年から760年の間に定まります。この時期のアッシリアは衰退期にあり、国内の統制に手を取られていました。前763年から758年にかけては反乱が続き、事実上の無政府状態でした。一方、ヤロブアム2世治世下の北王国イスラエルは、分裂王国の歴史の中でも例のない繁栄と軍事的成功をおさめていました。国際政治の力関係で言えば、イスラエルは底辺ではなく頂点に近いところにいたことになります。
ニネベの規模についても、注意が必要です。8世紀のニネベは、周囲およそ3マイル(約4.8キロ)、面積1.5平方マイル(約3.9平方キロ)ほどの町でした。7世紀にセンナケリブが都市を大きく造り変え、周囲7.5マイル(約12キロ)、面積4平方マイル(約10.4平方キロ)の規模へと拡張します。ニネベがアッシリアの首都になるのはこのときで、ヨナの時代から50年以上あとのことです。
このように、ヨナが送られた先は、大帝国の首都ではありませんでした。苦境にある国の、地方の中心都市の一つです。3章6節の「ニネベの王」という表現も、この事情から説明がつきます。ヨナの時代、アッシリアの王はニネベに居を構えていませんでした。ウォルトンは、ここで言われている王とはアッシリアの王ではなく、この都市あるいは州を治めていた総督か有力者を指すと考えるほうが自然だとしています。当時のアッシリアでは、王が実権を握っておらず、四人の有力な高官が国を動かしていました。西方の州の総督たちも、中央から距離を置く動きを見せています。
そのような政治情勢のもとで、ニネベの滅亡が間近だと告げる預言があれば、人々はそれを深刻に受け取ったはずだ、というのがウォルトンの見方です。4章11節の十二万という人口についても、7世紀のニネベとその周辺が30万人規模と推定されることを踏まえれば、それ以前の時期の数字として誇張とは言えないとしています。
こうして見ていくと、ヨナ書の「敵国」という主題は、そのままでは受け取れないことがわかります。なぜなら、同じアッシリアという国が、ヨナにとって、また、この書を受け取った人々にとって、まったく違う重さを持っていたと言えるからです。
ヨナ自身にとっては、ニネベはまだ差し迫った脅威ではありませんでした。それゆえに、彼が逃げた理由はニネベに対する恐怖ではなかったことになります。そして実際、4章2節でヨナが述べる理由は、恐怖とは何の関係もないものでした。神が恵み深く、あわれみに富み、怒ることおそく、災いを思い直される方であることを知っていたから、というのがその理由です。ヨナが耐えられなかったのは、アッシリアの軍隊ではなく、神の性質そのものだと言えます。
しかし、最初にこの書を読んだイスラエルの人々は、まったく違う視点を持っています。つまり、彼らは、アッシリアがその後どうなったかを知っているということです。ここで悔い改め、赦されたその町が、やがて自分たちの国を滅ぼすことになる。それを知ったうえで、この物語を読み進めることになります。神があの町にあわれみを示したという出来事を、受け入れられるのか。この問いは、ヨナよりもむしろ彼ら自身に向けられています。
また、ウォルトンは、もう一つの見方も提示しています。それは、ヨナの時代のニネベがまだ地方都市にすぎなかったことを、ヨナ書が歴史に疎い後代の著者によって書かれた証拠と見る立場もあるが、むしろ神がこの町の将来の役割を見越してヨナを遣わした、と考えることもできる、というものです。
史実性をめぐる問い
ヨナ書について最も多く問われるのは、これが実際に起きた出来事なのかという問いです。
史実として読む立場
福音主義の注解書の多くは、この書を歴史的な出来事の記述として読みます。ここでは、ダグラス・スチュアート(Douglas Stuart)による聖書注解(WBC)と、アンソニー・R・ペターソン(Anthony R. Petterson)による解説を参考に整理します。論拠は主に三つです。
第一に、ニネベの人々が悔い改めたという記述の蓋然性です。前8世紀前半のアッシリアは、対外的な敗北と国内の混乱が重なり、飢饉にも見舞われていました。加えて、この時期に地震と日食が起きています。アッシリアの人々にとって、これらは重大な凶兆でした。足元の揺らいだ町が、外国から来た預言者の言葉に反応したとしても、不自然ではないという議論です。
第二に、奇跡についての前提の問題です。魚に飲まれて三日三晩生きていたことや、とうごまが一夜で育ったことは、通常の出来事ではありません。しかし、これを理由に退けるのであれば、聖書に記された他の奇跡も同じ扱いをしなければならなくなります。「奇跡は起こりえない、ゆえに起こらなかった」という論法は、証拠に基づく判断ではなく、あらかじめ立てられた前提だ、という指摘です。
第三に、新約聖書の言及です。マタイによる福音書12章41節で、イエスはニネベの人々が裁きの時に立ち上がって、この時代の者たちを罪に定めると語ります。その理由として挙げられるのが、彼らがヨナの宣教を聞いて悔い改めたことです。ペターソンは、イエスがこの書を歴史として扱っていると述べ、ニネベの人々の悔い改めが虚構であるなら、イエスの論証は重みを失うと論じます。
史実性を疑う議論
一方、この書を歴史の記録とは考えにくいとする議論もあります。
まず挙げられるのが、成立の時期です。語り方が一貫して三人称であり、ヨナ自身の言葉はごくわずかしか記録されていないこと。3章3節でニネベが過去形で描かれ、この町がすでに存在しない時代からの視点をうかがわせること。アラム語の影響を思わせる表現が含まれること。これらから、ヨナの時代よりかなり後に書かれたと考える立場です。
ただし、遅い時期に書かれたからといって、書かれている内容が事実でないことにはなりません。出来事が起きてから記録されるまでに時間があくのは、珍しいことではないからです。『NIV Upside-Down Kingdom Bible』(Zondervan、2024年)のヨナ書の解説も、この書がヨナの時代よりかなり後に書かれたと述べたうえで、風刺あるいは寓話として理解されるべきものかもしれず、あるいは史実に基づく風刺であったかもしれない、という幅を残します。そして、どの解釈を取るにせよ、この書の目的は神の民に生き方を教えることにある、と結んでいます。
より直接に史実性へ向けられるのは、内容についての疑問です。ニネベの規模の描写や「ニネベの王」という言い方が歴史的な事情と合わないように見えること、そして奇跡的な要素が短い書の中に集中していることが挙げられます。
このうち前者には、すでに見たとおり反論が可能です。「ニネベの王」は州を治める人物を指すと読めますし、ニネベの規模も、8世紀の実際の姿を踏まえれば記述と矛盾しません。3章3節の過去形についても、ヘブル語の物語文体が出来事との時間的な距離にかかわらず過去形を用いる点が指摘されています。
マタイ12章41節についても、別の読み方があります。それは、イエスがここで語っているのは、正典として受け取られていた書の内容を踏まえたものであって、その出来事が歴史的に起きたかどうかを保証する発言ではない、という見方です。ルカによる福音書16章で、イエスがアブラハムに語らせる場面を、実際の会話の報告として受け取る人はいません。書かれたものの登場人物を論証に用いることと、その人物の実在を主張することは、同じではないという指摘です。
大きな魚をどう考えるか
ヨナ書といえば、まず思い浮かぶのが大きな魚でしょう。史実性が問われるとき、実際に最も引っかかるのもこの場面です。
まず確かめておきたいのは、聖書が何を書いているかです。1章17節は「主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた」と述べるだけで、鯨とは書いていません。種類も特定されておらず、示されているのは大きさだけです。特定の生物として描かれてはいないことになります。
この魚をどう受け取るかについて、ペターソンは神の力の問題として答えます。宇宙を造り、イエスをよみがえらせた神であるなら、魚の中でヨナを三日三晩生かすことも、とうごまを一夜で育てることも、その力の及ぶ範囲を超えないというのです。
ウォルトンは、別の角度から説明を試みます。彼が引き合いに出すのは、ギルガメシュ叙事詩に登場する「天の牛」です。今日の私たちはギルガメシュを空想的な神話と見なしますが、古代の人々はこれを真剣に受け取り、そこに出てくる生き物を実在するものと考えていました。ただしそれは、通常の動物学の分類に収まるものではなく、超自然的な領域に属するものでした。聖書の読者がケルビムやセラフィムをそう受け取るのと同じことです。ヨナの魚についても、同じ理解が可能かもしれない、とウォルトンは述べます。
この見方は、実話か作り話かという二択には収まりません。実在するが、身近な生物の延長では捉えられないもの、という第三の受け取り方です。魚の種類を特定しようとする議論も、逆にこの場面を虚構の証拠と見る議論も、どちらもこの魚を通常の生物として扱っている点では変わりません。
なお、この魚が「備え」られたものであることも、あとで意味を持ってきます。ヨナ書では、この「備える」という語が繰り返し使われるからです。
たとえ話でも寓話でもないもの
ここで、問いの立て方を変えてみます。そもそも「実話か作り話か」という二択は、この書を読むうえで本当に適切な問いなのでしょうか。
ヨナ書がしばしばたとえ話や寓話と呼ばれてきたことは事実です。しかし、スチュアートの議論をたどると、この書はそのどちらとも性格が異なることがわかります。
たとえ話は、通常きわめて短いものです。場面は一つ、多くても二つか三つに限られ、登場人物には名前がありません。しかし、ヨナ書は四章にわたり、主人公には父の名まで添えられています。
寓話では、出てくる人物や出来事が、それぞれ別の何かを指しています。読み手はそれを承知のうえで読み始めます。しかし、ヨナ書は違います。この書が何を問うているのかは、第4章で神が語りかけるまで見えてきません。
ミドラーシュ、つまり他の聖書箇所の注解として書かれたという説もありますが、これも支持しにくいものです。ミドラーシュであれば、旧約聖書のどこかの箇所を説明するために書かれた事になりますが、ヨナ書はむしろ、注解される側の一次的な文書に見えます。
それでは、どのように理解することができるでしょうか。
どれにも当てはまらないとすれば、ヨナ書はどのような文書なのでしょうか。スチュアートが用いるのは「教訓的預言者物語」(didactic prophetic narrative)という分類です。これは、列王紀のエリヤ・エリシャ物語やダニエル書前半と同じ質の文書、という位置づけになります。読者の想像力と感情をかき立てる要素が、短い分量の中に次々と繰り出されているとも指摘されています。
風刺と逆転の構図
近年の研究では、ヨナ書を風刺(satire)として読む見方が広がっています。パロディと呼ばれることもありますが、パロディが笑いの対象にするのは文学作品そのものです。人物や出来事に向けられるヨナ書は、風刺にあたります。
ウォルトンによれば、風刺は現実に近ければ近いほど効果を発揮します。実在の人物に向けられ、その人物が実際に使う言い回しや振る舞いをなぞろうとするものだからです。誇張はしますが、誇張の土台にあるのは現実です。
つまり、風刺として読むことと、史実として読むことは、対立しません。むしろ風刺という手法は、扱う対象が現実であることを前提にしています。
聖書の中に風刺の例を探せば、他にも見つかります。アモスがサマリヤの婦人たちを「バシャンの雌牛ども」と呼ぶ場面(アモス書4章1節)、イザヤが偶像を作る職人とそれを拝む者を描く場面(イザヤ書44章)。新約に目を移せば、イエスが律法学者やパリサイ人について語るときの言い回しも同じ系列に属します。
ヨナ書について多くの研究者が一致するのは、この書が読者にヨナを笑わせようとしている点です。同時に、その振る舞いと態度に読者は言葉を失うことにもなります。
ヨナ書では、神を知る者と知らない者の立場が、繰り返し逆転します。そして、その逆転はヘブル語の語彙に着目すると、いっそうはっきりと見えてきます。
まず1章です。嵐に遭った水夫たちは、それぞれ自分の神に必死で叫び、積み荷を海に捨てます。彼らは異教の神を信じる者たちです。その間、預言者であるヨナは船底で眠っています。ヨナに祈るようにと声をかけるのは、異教徒の船長のほうです。そして最後には、水夫たちが主を恐れ、犠牲をささげ、誓いを立てます。
ここで「恐れる」と訳されているヘブル語はヤーレーです。この語には「礼拝する」というニュアンスが含まれています。1章9節でヨナは自分を「主を恐れる者」と名乗りますが、そのとき彼は主のもとから逃げている最中でした。一方、16節の水夫たちは「大いに主を恐れ」ます。同じ語が、正反対のヨナと水夫たちに使われています。
次に3章です。ニネベの人々は、たった一言、ヨナのメッセージを聞いただけで、王から家畜まで悔い改めました。ヨナはまだ町を一日しか歩いていません。
この場面で繰り返されるのが、シューブという語です。向きを変える、という意味があります。3章8節で人々は悪い道から離れるよう命じられ、10節では神が、彼らが離れたのを見て、下そうとしていた災いを思い直されます。人が向きを変え、神も向きを変える。どちらにも同じ語が使われています。
同じ3章の4節にある「滅びる」も議論の多い語です。ここで使われているハーファクという動詞には、ひっくり返す、覆すという意味があります。新改訳2017は、この箇所の脚注に別訳として「くつがえる」を挙げています。町が滅ぼされることも、町のあり方が根本から変わることも、この一語で言い表せます。ヨナが語った言葉は、そのどちらにも読めるものでした。
そして4章で、ヨナの本音が出てきます。ここで効いてくるのがラーアーという語です。1章2節で神は、ニネベの「悪」が自分のもとに届いたと言います。4章1節では、ヨナがこれを「非常に不快」だとして激しく怒ります。口語訳では訳し分けられていますが、原語は同じ語です。ニネベの悪と、ヨナの不快が、一つの言葉で表現されています。
また、この4章で頻出するのが「備える」という語です。魚を備え(1章17節)、とうごまを備え(4章6節)、虫を備え(4章7節)、東風を備える(4章8節)。ヨナを救うものにも、ヨナを苦しめるものにも、同じ動詞が使われています。
さらに、主人公にヨナが選ばれていること自体を、風刺として読む見方もあります。ヤロブアム2世の時代にイスラエルの繁栄を告げた預言者が、ここではニネベの救いを嫌がる人物として描かれる。しかもその国は、やがてニネベの帝国に滅ぼされることになります。
開かれた結末
ヨナ書は、他の書にはない終わり方をします。
ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。
ヨナ書4章11節(口語訳聖書)
神の問いかけで、この書は終わります。ヨナがどう答えたのかは記されていません。彼が納得したのか、なお怒り続けたのかも、わかりません。
この結末は、書き忘れではなく、意図されたものだと考えられています。なぜなら、答えが記されていないのは、その問いが読者に向けられているからです。
4章4節と9節でも、神は同じようにヨナに問いかけます。「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。この問いに対して、ヨナは9節で「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」と答えます。答えているようで、答えになっていません。
ヨナ書が問うているのは、神が誰にあわれみを示すかを人が決められるのかということです。そしてこの問いは、後に自分たちの国を滅ぼす帝国の町に神があわれみを示した、という形で、ヨナ書の最初の読者であるイスラエルの民に突きつけられました。
この問いは、この書が実際に起きた出来事の記録であるかどうかにかかわらず、読者に向けられています。この点は、史実性を主張するスチュアートも認めています。4章4節の問いへの答えは、この記述が完全に虚構であったとしても変わらない、というのです。ただし、それが実際に起きたのであれば、読者が自分をこの物語に重ねる度合いは違ってくる、とも述べています。
ヨナ書を風刺として読むことは、この書が語る出来事を否定することではありません。それは、この書がどのような手法で書かれているかについての判断であって、何が起きたかについての判断とは、別の層にあります。
ぼくどくメモ
ヨナ書を四回に分けて説教したことがあります。準備をしながら気づかされたのは、この書の要は対比の構造にあるということでした。
ヨナ書といえば、魚の腹の中で三日三晩を過ごした場面が真っ先に思い浮かびます。絵本でも説教でも、そこが山場として扱われます。けですが、ヨナ書全体を通して読むと、一貫したメッセージが全体に散りばめられていることに気が付きます。眠る預言者と祈る水夫。たった一言の説教で悔い改める町と、その結果に怒る預言者。とうごまを惜しむ心と、十二万の人を惜しむ心。どの場面にも対比が仕込まれていて、その積み重ねが最後の問いに向かっていきます。
もう一つ思わされたのは、ヨナの立っていた場所が、現代の読者にとって遠いものではないということです。ヨナは理解しがたい人物として描かれているようでいて、その反応の一つひとつには思い当たるところがあります。神のあわれみが、自分の望まない相手にまで及ぶ。それを喜べるかと問われたとき、決して二つ返事はできないと認めざるを得ません。。
そしてここには、大きな挑戦が含まれています。つまり、自分を迫害する者に福音を届けるということです。言葉にすれば簡単ですが、実行するのは何と難しいことでしょうか。ヨナ書はその難しさを、預言者の姿を通して正面から描いています。だからこそ、最後の問いは答えられないまま残されているのだと思います。
参考文献
Douglas Stuart, Hosea–Jonah, Word Biblical Commentary 31(Word Books, 1987年)
John H. Walton, “Jonah,” in Zondervan Illustrated Bible Backgrounds Commentary: Old Testament, Volume 5(Zondervan, 2009年)
Anthony R. Petterson, “Jonah,” in The NIV Grace and Truth Study Bible, ed. R. Albert Mohler Jr.(Zondervan, 2021年)
NIV Upside-Down Kingdom Bible: Think Deeply / Love Widely(Zondervan, 2024年)
土岐健治『ヨナのしるし:旧約聖書と新約聖書を結ぶもの』(一麦出版社、2015年)
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