聖書には様々なジャンルの書が含まれていて、読みやすいものもあれば読みにくいものもあります。
中でも「読みやすい」ものに含まれるのは、物語が展開していく書ではないでしょうか。中心人物がいて、その人を中心に物事が展開していくものは、現代の読者にも馴染みのスタイルであり、ついていきやすいものです。
そして、そのような書の一つとして挙げられるのが『ルツ記』です。ルツを中心に話が展開していくだけではなく、4章しかないということも相まって、読みやすく、広く知られている書となっています。
ですので、ルツ記はそのまま読んでも十分読みやすく、面白いのですが、背景にある大きなテーマを意識していることで、よりその深みを味わうことができると思います。
ルツ記のメッセージ
ルツ記のメッセージについて、『聖書の輪郭』(岩上敬人著)ではこのように言われています。
ルツ記には直接記されていませんが、神の恵みに満ちた支配が物語全体を貫いています。エリメレク一家をモアブに送ったこと、ナオミとルツが家族となったこと、ベツレヘム帰郷にルツが信仰に基づいて行動をともにしたこと、ルツとボアズを出合わせたこと、すべての背後に神が恵みをもって働いておられるのです。
岩上敬人『聖書の輪郭』(イムマヌエル綜合伝道団出版事業部、2024年)、47頁
まさにここで言われているように「すべての背後に神が恵みをもって働いておられる」というのが、『ルツ記』を理解する上で重要です。
ですが、さらに一歩踏み込んで、私は『ルツ記』には、それが「記されている」と考えています。もっとも、その恵みをルツたちは認識していません。その点において、「直接」という言葉があるのではないかと思います。
では、どこに人には見えない神の働きが記されているのでしょうか。
「パン」と「パンの家」
まず注目したいのが、ナオミたちがモアブの地から故郷に帰ることになった「理由」です。
ルツ記1章6節(口語訳聖書)その時、ナオミはモアブの地で、主がその民を顧みて、すでに食物をお与えになっていることを聞いたので、その嫁と共に立って、モアブの地からふるさとへ帰ろうとした。
口語訳聖書で「食物」と訳されている言葉は、ヘブル語で「לֶחֶם(レヘム)」と言い、意味は「パン」です。新改訳聖書では「パン」と訳されています。聖書協会共同訳では、脚注に「直訳『パン』」とあります。
ではなぜ「パン」に注目することが重要なのかと言えば、それはナオミとルツが帰る先が「ベツレヘム」(19節)、意味は「パンの家」だからです。この点については、聖書協会共同訳では、2節で言及される「ベツレヘム」の脚注に、「『パンの家』の意」との注記があります。
パンがなくなってモアブの地に行ったナオミたちでしたが、故郷のベツレヘム(パンの家)でパンが与えられていることを聞いて、帰ることにしたのです。
しかし、これだけでは、まだ神の働きは見えません。
ナオミの言葉と風景描写
ベツレヘムに着いたナオミは、町の女性たちに向かってこう言います。
わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。
ルツ記1章21a節(口語訳聖書)
ここでナオミは、自分の手には何もないと言います。モアブの地に行った時には、夫や息子たちがいましたが、ベツレヘムに帰ってきた時には、何も持っていなかったのです。これは、この章でナオミが語る最後の言葉でもあります。
そして、この直後に記されるのが22節です。
こうしてナオミは、モアブの地から帰った嫁、モアブの女ルツと一緒に帰ってきて、大麦刈の初めにベツレヘムに着いた。
ルツ記1章22節(口語訳聖書)
ナオミたちが故郷に着いた時、ちょうど大麦の刈り入れが始まる季節でした。これは一見すると、ただの風景描写と思われるかもしれません。ですが、ここに見えない神の働きがすでに始まっていることが記されています。
大麦は小麦よりも早く実りますので、その年の刈り入れは大麦から始まります。ナオミたちは、故郷で神が「パン」を与えてくださるということを耳にして帰ってきました。そして着いてみると、ちょうどその年の収穫が始まろうとしていたのです。
「第三の声」が語ること
そして重要なのは、これが風景描写であり、ナオミやルツの口を通して語られていない点にあります。この描写をしているのは、わかりやすく言えばナレーションであり、それはつまり「第三の声」です。
この点を、1章全体の中で俯瞰すると、より鮮明になります。
1章には主への言及が何度も出てきますが、そのほとんどはナオミやルツの口から出た言葉です。ナオミの祝福も、嘆きも、ルツの誓いもそうです。その中で、語り手が地の文で主のなさったことに触れているのは、6節の一か所だけです。主がその民を顧みて、パンを下さったという一文です。
そして、22節も同じ語り手の言葉です。主がパンを下さったと語る声が、1章の最後で、ナオミとルツが大麦の刈り入れの初めにベツレヘムに着いたと語ります。そして、この間に挟まれているのが、自分は何も持たないで帰された、というナオミの言葉です。
ここには二つの視点があります。つまり、ナオミが見ているのは、自分の手にあるものです。夫がいない、息子がいない、持ち帰るものがない。その一方で、語り手が読者に示しているのは、パンが与えられたことと、その原料となる大麦の刈り入れが始まったことです。しかし、ナオミはそれを知りません。知っているのは、語り手と読者だけです。
ここに『ルツ記』の秀逸さがあるように思います。ナオミやルツには見えないところで、実は神の恵みの働きはすでに始まっていました。それが「大麦刈の初めにベツレヘムに着いた」という一節です。重要なのは、ナオミとルツの口から出た言葉ではなく、第三の声として記されているという点です。そこに、人には見えない神の働きが描かれています。そしておそらく、このことに気づかせるために、翻訳聖書では、脚注でわざわざ直訳の意味として「パン」を表記しているのではないかと推察します。
このようにルツ記には、人には見えない神の恵みによる働きが大きなテーマとして描かれています。こういったことにも意識を向けることで、より深く聖書を味わえるのではないでしょうか。
