ルツ記4章15節で、ベツレヘムの女性たちは、生まれたばかりの子についてナオミにこう言います。

その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。

ルツ記4章15節(新改訳2017)

この「元気づけ」と訳されている言葉は、ヘブル語では「シューブ(שׁוּב)」という動詞です。「引き返す」「帰る」を基本の意味とする語で、ルツ記1章で何度も用いられ、1章21節のナオミの言葉にも見られます。

今回は、4章15節のシューブの訳語を手がかりに、ルツ記におけるシューブの意味について考察します。

「帰る」(1章15節)

ルツ記1章では、それぞれが「帰る」描写があります。ナオミは嫁たちに「それぞれ自分の母の家に帰りなさい」と言い(1章8節)、オルパは自分の民のところへ帰り(1章15節)、ナオミはルツと一緒にベツレヘムに帰って来ます(1章22節)。これらの「帰る」はいずれもシューブです。

そして、ベツレヘムに帰ってきたナオミは、町の女性たちにこう言います。

私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。

ルツ記1章21a節(新改訳2017)

この「帰されました」と訳されている言葉は、シューブの使役形(ヒフィル)です。主が私を帰らせた、しかも何も持たせずに、という言い方です。夫と二人の息子を失ったナオミは、この帰郷を、主が自分に何も持たせずに帰らせたと言い表します。

直前の20節でも、主が苦しみに合わせたとナオミは言います。ナオミにとって、モアブからベツレヘムの地に帰ることは、夫も息子たちも失い、失意の中での帰郷でした。

「たましいを返らせる」(4章15節)

続いて、4章15節を見てみましょう。

その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。

ルツ記4章15a節(新改訳2017)

ここで「あなたを元気づけ」と訳されている言葉は、原文では「メーシーヴ・ネフェシュ(מֵשִׁיב נֶפֶשׁ)」です。メーシーヴはシューブの使役形の分詞、ネフェシュは「たましい」「いのち」を表す語で、直訳すると「たましいを帰らせる者」となります。

注目されるのは、1章21節と同じ動詞「シューブ」が、同じ使役形で用いられている点です。Anchor Bible Commentaryシリーズでルツ記を担当したE. F. Campbellは、ルツ記でシューブの使役形が出てくるのはこの二箇所だけだと指摘しています。ナオミが「主は私を素手で帰された」と嘆いた語が、結末部分で、生まれた子について「あなたのたましいを帰らせる者」として再び使われています。ルツ記の語り手がこの対応を意図して記したと考えるのが、自然な読み方であると思われます。

訳語の選択

では、この言葉を日本語でどう訳すか。ここには、翻訳ならではの難しさがあります。

メーシーヴ・ネフェシュは慣用句で、衰えた人に力やいのちを取り戻させる、という意味で用いられます。旧約聖書のヘブル語・アラム語辞典であるHALOTは、この言い方を「活力を取り戻させる」「元気づける」と説明し、ルツ記4章15節をその用例に挙げています。哀歌1章では、飢えた民が「気力を取り戻そうとして、自分の宝を食物に換えている」場面(11節)や、「元気づけ、慰めてくれる者が、私から遠く離れたからだ」と嘆く場面(16節)に、同じ言い方が出てきます。16節は、ルツ記4章15節と同じ分詞の形で、新改訳2017はここでも「元気づけ」と訳しています。

ルツ記4章15節における新改訳2017の「元気づけ」という訳は、「メーシーヴ・ネフェシュ」の上記のニュアンスを汲み取ったものだと考えられます。直後に続く「老後のあなたを養うでしょう」が並んでいることを踏まえると、生まれた子がナオミの暮らしを支え、老いた日々に力を与える、という具体的なイメージが浮かび上がります。日本語としても自然で、特に違和感なく読める訳であると言えます。

その一方で、新共同訳は同じ箇所を「その子はあなたの魂を生き返らせる者となり」と訳しています(聖書協会共同訳では「その子はあなたにとって魂を生き返らせる者となり」)。英語の訳でも、NIVは “He will renew your life”、ESVは “He shall be to you a restorer of life” としています。これら、先述の「元気づける」というニュアンスよりも、「ネフェシュ」の重さと、失われた「たましい(いのち)」が回復されるというニュアンスを前に出した訳だと言えます。

どちらの訳にも根拠があり、それぞれ原文の意味合いを踏まえたものであることは確かでしょう。ただ、どの訳を選んでも、日本語の読者が1章21節との対応に気づくことは難しいという点は変わりません。ヘブル語では一つの動詞が「帰る」「帰らせる」と「生き返らせる」を表すことができますが、日本語ではそれを別々の言葉で訳し分けるしかありません。「元気づけ」と訳しても、「生き返らせる」と訳しても、1章の「帰されました」とは別の語になります。これは個々の訳の欠陥というより、翻訳する上で避けられない問題です。

とはいえ、興味深いのは、「かえる」という音において、「生き返らせる」が「帰る」と対応しているとも言えなくはないかもしれません。もっとも、それを意図したかどうかはわかりません。個人的には、対応がわかるわからないは別にして、「たましいを生き返らせる」の方が、ルツ記全体のメッセージを汲み取る上ではより適しているように思います。というのも、ルツ記は、序盤でナオミが失意の中で故郷に帰る(素手で帰らされた)中で、最終的にはルツを通して生まれた子によって「生き返らされる」という回復の物語だからです。その点「元気づける」だと、わかりやすいですが、重みが感じられないように思います。

別の箇所における同じ言葉

同じ慣用句に近い言い方は、詩篇23篇3節にも出てきます。

主は私のたましいを生き返らせ…

詩篇23篇3節(新改訳2017)

ここは動詞の形がポレル形で、ルツ記のヒフィル形とは異なりますが、同じ「シューブ」と「ネフェシュ」の組み合わせです。直訳すれば「私のたましいを帰らせ」となります。新改訳2017は、ここでは「生き返らせ」を選んでいます。

このことから、同じ語の組み合わせでも、文脈によって訳語が変わることが分かります。詩篇23篇では、羊飼いである主が羊を養う歌の中で、たましいの回復が歌われています。ルツ記4章15節では、町の女性たちの言葉の中で、子が老いたナオミを支えることと並べて語られています。訳者はそれぞれの文脈に合う日本語を選んでいます。

ルツ記の枠組み

原語に目を向けると、ルツ記の物語の枠組みが鮮明になります。

ナオミは、主が自分を素手で帰らせたと言いました(1章)。実際、ルツ記において、ナオミが経験した悲惨(夫と息子たちがなぜモアブで死んだのか)について、その理由が説明されることはありません。ですので、ナオミが全てを失って帰ってきたことはルツ記を読む上で、前提となっています。ですが、物語の終わりで、4章13節は「主はルツを身ごもらせ」と、生まれた子が主から与えられたことを記します。そして町の女性たちは、その子をナオミの「たましいを帰らせる者」と呼びました。

1章21節でナオミを「(素手で)帰らせ」のは主でした。そして、4章15節で「たましいを(生き)かえらせる者」と呼ばれるのはルツ子ですが、その子を与えたのは主です(4章14節)。素手で帰されたと語った人に、主はたましいを帰らせる者を与えられました。このように原語に着目することで、ナオミの経験した悲惨が、主によって回復されていることが示されていることが読み取れるのではないでしょうか。

翻訳聖書と原語

翻訳聖書は、原文の意味を日本語の読者によく理解できるように、一つひとつの箇所で文脈を踏まえて訳語を選んでいます。4章15節の「元気づけ」も、その選択の一つです。その選択のおかげで、私たちはこの箇所を日本語として自然に読むことができます。

原語に目を向けることは、翻訳の是非を問うためではなく、訳語の背後にある言葉のニュアンスを汲み取るための一つの方法であると思います。ルツ記4章15節の場合、その響きは1章21節のナオミの嘆きにつながっています。翻訳で読みながら、ときに原語の言葉に立ち止まることで、物語の中に置かれた言葉のつながりが見えてくることがあります。


参考文献

Ludwig Koehler and Walter Baumgartner, The Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament (HALOT), rev. Walter Baumgartner and Johann Jakob Stamm, trans. and ed. M. E. J. Richardson (Leiden: Brill, 1994–2000), s.v. שׁוב.

Edward F. Campbell Jr., Ruth: A New Translation with Introduction, Notes, and Commentary, Anchor Bible 7 (Garden City, NY: Doubleday, 1975).