9 総督であるネヘミヤと、祭司であり、学者であるエズラと、民を教えるレビびとたちはすべての民に向かって「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言った。すべての民が律法の言葉を聞いて泣いたからである。
ネヘミヤ記8章9節(口語訳聖書)
これは、ネヘミヤたちの指導によって、エルサレムの城壁が再建された時の場面です。こうして、民は神への礼拝をささげることができました。そして、ネヘミヤはこのように民を励まします。
10 そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。
ネヘミヤ記8章10節(口語訳聖書)
ここで「力」と訳されているヘブル語「מָעוֹז(マオーズ)」には、「砦」「要塞)という意味があります(BDAGによると、1. mountain stronghold, place of refugeとあります)。実際、詩篇では「砦」と訳されることが多いです。
このニュアンスを踏まえると、主を喜ぶことがどのような力なのかがイメージできます。つまり、それは「守る」力です。主を喜ぶこと、すなわち礼拝することは、礼拝者を守ります。
何から守るのか。それは、この世界のあらゆる誘惑、ささやき、脅しなど、主なる神から目を逸らそうとするものすべてです。
実際、イスラエルの民は、神を信頼することをせず、この世の力を頼みとし、周辺諸国と同盟を結び、バビロンとの戦いへと突き進んでいきました。しかし、ネヘミヤたちを通して語られた神の教えを理解した時、そのことを悔いて、涙したのです。もしも、主を喜ぶ心があったならば、そのような人間的な力、目に見える力を頼りとする誘惑からは守られたでしょう。
転じて、現代においても、礼拝する意味がこの箇所から学べます。私たちを取り巻くこの世の価値観に私たちは知らず知らずのうちに影響を受けています。そして、いつの間にか、それらの虜になっています。そして、次第に、自分の価値を認めてもらうことに疲れ、自分でも認めることができずに、生きる原動力を失うのです。しかし、主を喜ぶ心があれば、私たちはそのようなものに右往左往せずに、強固な要塞で守られて、揺らぐことなく立つことができるのではないでしょうか。主を喜ぶことは、私たちの「力」です。
