エルサレムでの仮庵の祭りで、イエスは「ユダヤ人」たちにご自身が父なる神から遣わされた者であることを証しします。しかし、そのことが人々の怒りを買い、捕らえられそうになります。しかし、捕まることはありませんでした。その理由を、「イエスの時がまだ来ていなかったから」だと著者は述べています。

『ヨハネの福音書』において、「時(ὥρα)」というのは、重要なテーマの一つとなっています。共観福音書と比較しても、「時」という言葉が多く使われていますし、また、『ヨハネ』における「時」の用法は独特です(参照 ヨハネ 1:39; 2:4; 4:6, 21, 23, 52-53; 5:25, 28, 35; 7:30; 8:20; 11:9; 12:23, 27; 13:1; 16:2, 4, 21, 25, 32; 17:1; 19:14, 27)。

ここで思い出されるのは、「カナの婚礼」(2章)の出来事です。その時、マリアは「ぶどう酒がなくなった」とイエスに伝えますが、イエスは「わたしの時は、まだきていない」と返します。しかし、その直後、水をぶどう酒に変えられました。

似たような出来事が7章にもあります。兄弟たちが兄イエスにエルサレムに上るように勧めますが、イエスは「わたしの時はまだきていない」と答えます。しかし、その直後、エルサレムに内密に上られます。

このように一見すると不思議な行動をイエスは取るわけですが、このことを理解する鍵が、『ヨハネ』の「時」理解です。

『ヨハネ』において、イエスは一貫して父なる神から遣わされた御子であることが証しされていることは、『ヨハネ』が書かれた目的からも明白です。「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネの福音書20章31節:口語訳聖書)

また、イエスご自身は、自身が遣わされた理由について、こう述べています。「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネの福音書6章38節:口語訳聖書)。

このところで示されていることは、御子イエスは父なる神のみこころを行うために来られたということです。それは別言すれば、御父の主権のもとで行動されているということです。そして、それがまさに『ヨハネ』のいうところの「時」です。イエスは常に神の主権のもとで行動している御子であると『ヨハネ』は証ししているのです。

この点を踏まえるならば、先述の2章や7章での不思議な行動の意味が理解できるのではないでしょうか。つまり、イエスは、人間の時ではなく、神の時に行動されるということです。だからこそ、母マリアや兄弟たちの提案ではなく、ご自身のタイミングで、それはすなわち父なる神の時に、行動されたということです。