この一連の出来事は、預言者エリヤがバアルの預言者たちと対峙した印象的な場面です。
彼らは与えられた牛を取って整え、朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。しかしなんの声もなく、また答える者もなかったので、彼らは自分たちの造った祭壇のまわりに踊った。
列王記上18:26(口語訳聖書)
CSなどでも、よく選ばれる箇所の一つだと思います。バアルの預言者たちが踊っている様が浮かんできます。
ここで注目したいのは、果たしてバアルの預言者たちは「踊った(跳びはねた)」のかということです。
そこで、前後の文脈に着目しつつ考えてみましょう。21節にも、同じ言葉が使われていますが、これは預言者エリヤが、主なる神とバアル神の間で揺れ動く民に対して語りかけた言葉です。
そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。
列王記上 18:21(口語訳聖書)
ここで「二つものの間に迷っているのですか」と訳されているフレーズは、新改訳2017では「どっちつかずによろめているのか」、新共同訳および聖書協会共同訳では「どっちつかずに迷っているのか」と訳されています。聖書協会共同訳聖書は脚注にて、直訳は「二本の枝を跳びはねるのか」であることを補足しています。ちなみに、原文では、עַד־מָתַ֞י אַתֶּ֣ם פֹּסְחִים֮ עַל־שְׁתֵּ֣י הַסְּעִפִּים֒となっています。
HALOTによると、פֹּסְחִיםの語根である「פסח」には、いくつかの意味がありますが、主な意味としては、「limp」や「lame」などが当てられています。また、この特定の箇所については,”1Kgs 1826 to limp about in a cultic ceremony, perform a hobbling dance”と説明されています。「פסח」の主要な意味としてではなく、この特定の文脈における意味として、かろうじて “dance”というフレーズが見られます。しかし、「足が不自由、足を引きずっている」といった意味を持つlimpやlameと「踊る/跳びはねる」は極めて対照的な意味だと言えます。ちなみに、この「פסח」は、過ぎ越し(pass over)の語根でもあります。
それでは、このような対極的な意味合いが本当にあるのか、ということが疑問に思われるわけですが、別の辞書を見てみますと、NIDOTTEでは下記のように説明されています
The vb. is used in the qal to speak figuratively of limping about between two opinions or courses of action with regard to the worship of Yahweh or Baal (1 Kgs 18:21). It also describes the physical incapacity of Mephibosheth (2 Sam 4:4), and as an ironic twist on Israel’s ambivalence, it refers to the priests of Baal as limping about (NIV dancing; 1 Kgs 18:26). It seems best to distinguish פָּסַח, pass or spring over, from פָּסַח, limp.
Willem VanGemeren, ed., New International Dictionary of Old Testament Theology & Exegesis (Grand Rapids, MI: Zondervan Publishing House, 1997), 641.
ここで、 “It also describes…as an ironic twist on Israel’s ambivalence, it refers to the priests of Baal as limping about (NIV dancing; 1 Kgs 18:26)”とあります。イスラエルの民の「アンビバレント(ambivalence)」な態度への「皮肉的なねじれ」として、説明されています。
それでは、民のアンビバレントな態度とは何かと言えば、その一端が21節に垣間見られます。21節にて、エリヤは民に決断を迫りましたが、民は「二つのものの間に迷って…ひと言も彼に答えなかった」とあります。神に信頼するべきなのか、バアルに従うべきなのか。民は答えることができなかった、どっちつかずの態度を取っていたのです。その一方で、26節でバアルの預言者たちはバアルの答えを求めて、祭壇のまわりを踊ったとあります。
このように、イスラエルの民とバアルの預言者の「対比」(皮肉的なねじれ)を意識するなら、民は「もたつき」、預言者はそれに対して「踊った」と解釈することができます。
しかし、それ以外の解釈もあります。その例として、ESVではこのように訳されています。
“But there was no voice, and no one answered. And they limped around the altar that they had made.”(1kgs 18:26 ESV)
この訳からは、「踊った」というイメージは全く連想されません。むしろ、”limp around”、つまり、足を引き摺りながら歩く、弱々しく歩き回る、という印象を受けます。もちろん、これは一例で、NIVでは”danced”、KJVでは”leaped upon”となっていたりします。
結局のところ、これは解釈者次第と言えるわけですけれども、個人的には「踊る/跳びはねる」である必要性はない、むしろ根拠は薄いように思われます。と言うのも、上記の辞典では、danceやleapが主要な意味として挙げられていませんし、また、聖書中でも「פסח」が「踊る/跳びはねる」と訳されている箇所は、26節以外にはないからです。
であるならば、基本的な意味である「limp」や「lame」を念頭に置いて解釈した方が自然なような気がします。
したがって、上記の点を踏まえるなら、26節において、バアルの預言者たちは、一向に応えてくれないバアルに対して「踊った」というよりも、弱々しく足を引きずっている、もたついている(limp)と解釈できます。こうしますと、先の21節との関係も見えてくるのではないでしょうか。イスラエルの民は、主なる神とバアル神の間で「פסח」していた、つまり、どっちつかずで、もたもたしていました。同様に、バアルの預言者たちも、何も返事のないバアルに対して、そこはかとなく疑問を感じていたと言えるのではないでしょうか。結局のところ、イスラエルの民もバアルの預言者も、その姿勢においては「同じ」であったと言えるのかもしれません。
