「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳聖書)
ここで「静まって」と訳されるヘブル語は「הַרְפּ֣וּ(ハルプー)」と言います。新改訳2017では「やめよ」、新共同訳では「力を捨てよ」と訳されています。
この言葉の語源である「ラファー(רָפָה)」という動詞は、基本形(Qal形)では「緩む」「弱くなる」といった、自然に力が抜けていくような状態を指します。しかし、ここで使われているのは「ヒフィル(Hif)形」で、「使役」のニュアンスがあります。このニュアンスを汲むなら、これは、ただ静かになるのを待つのではなく、「(意図的に)放させる」「手を引かせる」という、自分の意志を用いた能動的な働きかけを意味していると言えます。
詩篇46篇で描かれる背景は、山が揺らぎ海が騒ぐような大混乱です。そのような危機に直面したとき、人は本能的に、事態をコントロールしようと手に力を込めてしまいます。不安、自分の策、あるいは必死な自己防衛。しかし神はそこで、張り詰めた弓の弦を自らの意志で緩めるように、あるいは握りしめた拳を開かせるように、「放しなさい」と迫っておられるのではないでしょうか。
興味深いことに、この言葉と同じヒフィル形は、他の箇所において、「主はあなたを見放さない(手を放さない)」という約束の文脈で使われています(申命記31:6等)。このことから、神が私たちの手を決して放さないでいてくださるからこそ、私たちは、自分で自分を支えようと必死に握りしめていたものを安心して手放すことができるようになるのだと思います。
私たちが自らの意志で「手を放させる(ハルプー)」決断をするとき、その先に待っているのが「わたしこそ神であることを知れ」という招きです。自分でコントロールすることをあきらめ、拳を開いたその隙間に、初めて神の主権が入り込む余地が生まれます。それは単なる知識としての理解ではなく、自らの無力さと神の全能さが交差する場所で体験する、深い「知る」ということへと繋がっていくのではないでしょうか。
