ルカの福音書10章25-37節は、「善きサマリア人」というたとえ話として広く知られています。半殺しにされた人の元に3人の人が通りかかり、初めの二人は通り過ぎ、最後に来たサマリア人が介抱したお話です。

当たり前のことですが、サマリア人に注目されることがよくあります。ですが、あえて祭司とレビ人に注目したいと思います。

では、なぜ初めの二人、つまり「祭司」と「レビ人」は通り過ぎてしまったのでしょうか。大きな理由としては、「血」に触れると汚れるから、ということが挙げられると思います。その上で、通り過ぎた二人が「自己中心的」であったからとみなされることが一般的には多いように感じます。

確かに、最終的にはそうとも言えるのかもしれませんが、しかし、細かい状況を考えるなら、必ずしも単純な話ではなさそうです。たとえば、祭司もレビ人も神殿で仕える働きをしています。つまり、血に触れてしまうと、しばらくの間、その汚れゆえに隔離され、神殿での奉仕ができなくなってしまうわけです。それは、自分たちだけではなくて、神殿に礼拝に来た人々にも影響を及ぼすものです。

現代的に言えば、牧師が感染症の患者に接して、しばらく礼拝活動ができないといったところでしょうか。もっと言えば、日曜日の朝、感染症の患者に接し、当日教会に行くことすらできなくなったと言えるかもしれません。

そのようなことを踏まえるなら、通り過ぎていった祭司とレビ人を、頭ごなしに否定することはできないように思います。少なくとも、もし自分が同じような状況になった時に、そのように通り過ぎる可能性が0ではないということを強く思わされるのではないでしょうか。

このような視点も持つことで、たとえ話の理解が深まるということもあるように思います。