「ローマ書は難しい。」
そのような印象を持つ人は、決して少なくないと思います。実際、議論の密度が高い書です。ただ、読み進められない理由はそれだけではないようにも思います。その一つとして、この手紙が受取人の顔が見えないまま展開されていくことにもその要因があるのではないでしょうか。
例えば、コリント書であれば、分派争いや訴訟や食事をめぐる問題が本文の表面に出てきますので、誰に向けて何が語られているのかが読みながら分かります。ピリピ書にも、パウロと教会との具体的な関係が終始にじんでいます。ところがローマ書では、1章から15章の半ばまで、緊密な議論が途切れずに続きます。パウロはこの教会を建てたわけではなく、大半の人との面識もありません。そして、読者は、誰に宛てられた言葉なのかが分からないまま、難しい議論だけを追うことになります。この手紙が長らく教理の教科書として読まれてきたのも、そのような事情があってのことかもしれません。
ですが、改めてローマ書は「手紙(書簡)」であるということに注目すると、また違った印象を受けるのではないかと思います。そして、単なる神学議論が繰り広げられている書から、パウロの思いが込められた温かみのあるものとして読めるのではないでしょうか。
連載『ローマ書は一日にして読めず』は、ローマ書を自分で読んでみようと思えるようになることを目指して書いていきます。そして、初回となる本記事では、1章からではなく、最後の16章から読んでいきます。ここがポイントです。
読み飛ばされる章
16章1-2節でフィベが推薦され、続く3-16節で、パウロは26人に挨拶を送ります。そのうち名前で呼ばれているのは24人です。プリスカ、アキラ、エパイネト、マリア、アンドロニコ、ユニア、アンプリアト、ウルバノ、スタキス、アペレ、ヘロディオン、トリファイナ、トリフォサ、ペルシス、ルフォス、アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、フィロロゴ、ユリア、ネレウス、オリンパ。残る二人は「彼と私の母」「ネレウスとその姉妹」と記されるだけで、名前が伝わっていません。これに「アリストブロの家の人々」「ナルキソの家の主にある人々」といった家長のもとで暮らす人たちへの言及が加わります。そして、パウロは「よろしく」という挨拶を16回繰り返しています。
このように16章というのは、知らない名前が続き、教理的な主張も見当たらないため、通読の際に読み飛ばされやすい箇所です。しかし近年のパウロ研究では、この名簿が注目されてきました。というのも、この名前の一覧が、ローマ書は「論文」ではなく「手紙」であることを示す具体的な証拠となっているからです。ビヴァリー・ガヴェンタは、名前の研究の意義を、この書物を抽象的な論考としてではなく実在の人々に宛てられた手紙として理解させてくれる点にあると述べています。この名前の一覧は、15章までの議論が誰に向かって語られたのかを示しています。
※ 16章の名前の一覧(リスト)がローマ書の性格を示すという指摘は、ガヴェンタの注解書によります。
名前と身分
ローマ帝国の首都では、名前が身分を語りました。この点に注目すると、名前リストの見え方が変わります。
「アンプリアト」は「豊かな」を意味し、アウグストゥス帝の時代に奴隷の名として作られ、ローマの碑文に頻出します。「ウルバノ」は「洗練された」、「アシンクリト」は「比類なき」を意味します。どちらも、主人が奴隷にこうあってほしいという願いを込めて与えた名です。「フレゴン」は「燃える者」で、犬の名にも用いられました。「ヘルメス」は伝令の神にちなんだ名で、ペーター・ランペが奴隷のための名と呼ぶほど、当時のローマで多く用いられています。「ペルシス」は出身地に由来する、女性奴隷の典型的な名です。
これらは碑文や文献に残る用例の統計による推定であり、一人ひとりの身分を確定するものではありません。また、名前を持つ本人がなお奴隷であったのか、すでに解放されていたのかも、多くの場合は判断がつきません。それでも顔ぶれ全体としては、この集まりに奴隷やその境遇を経てきた人々が多く含まれていたことを示しています。
また、「アリストブロの家の人々」「ナルキソの家の主にある人々」という言い方にも含みがあります。ここで注目されるのは、パウロが家長本人に挨拶を送っていないということです。信仰を持っていたのは家長ではなく、その家に属する奴隷や解放奴隷たちだったと考えるのが自然です。
一方でパウロは、アンドロニコ、ユニア、ヘロディオンを「私の同胞」と呼びます。ユダヤ人だという意味です。アキラについては、使徒の働き十18章2節がポントス出身のユダヤ人であったと明記しています。なお同じ箇所でルカは、妻を「プリスキラ」と呼んでいます。これはパウロが用いる「プリスカ」の愛称形で、同一人物です。彼女自身の出自は記されていませんが、夫とともにクラウディウス帝の勅令によってローマを離れていますので、同じくユダヤ人であったと見るのが自然です。ギリシア語の名を持つ東方からの移住者もいれば、ラテン語の名を持つ者もいます。この短い名簿に、ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人、移民と土着の者、男性17人と女性9人が挙げられていることになります。
※ 名前と身分の関係については、トールマンとクルーズの注解書を参照しました。ペーター・ランペによる人名の統計的研究も、両書の紹介によります。
手紙を託された人
名簿の冒頭に記されているのはパウロからの挨拶ではなく推薦です。「私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベ」を、パウロはローマの信徒たちに委ねます(ローマ16章1節)。ここで「奉仕者」と訳された語は “διάκονος” であり、パウロが自分自身や同労者たちに用いる語と同じです。
ケンクレアはコリントの外港であり、パウロはそこからこの手紙を送り出しました。古代の推薦文の形式から見て、フィベがこの手紙を託された使者であったと見てよいでしょう。
ここで念頭に置いておきたいのは、当時の教会の姿です。その当時、その町のすべての信徒が一つの会堂に集まるという形ではありませんでした。パウロは「彼らの家の教会」という言い方で、プリスカとアキラの家に集まる人々に触れています(ローマ16章5節)。16章の挨拶が複数の相手に向けて繰り返されるのは、そうした小さな集まり(家の教会)が町の中に点在していたからだと考えられます。
フィベの務めは、手紙を届けて終わりではありませんでした。彼女はそれらの家(家の教会)を一軒ずつ訪ね、集まった人々の前で手紙を読み上げたと考えられます。おそらく、そこではローマの信徒たちとの交流もあったでしょうし、質問されれば答え、説明を加えることもあったでしょう。
パウロは彼女を「多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもある」とも記します(ローマ16章2節)。この語(προστάτις)の意味をめぐっては議論がありますが、少なくとも自らの資力で旅をし、他者を支えうる立場にあったことは確かです。
※ フィベの役割、当時の集まりの姿、および προστάτις の訳語をめぐる議論については、ガヴェンタとクルーズの注解書を参照しました。
リストから読み取れること
細かいことですが、名前に付された説明にも、注目する価値があります。
プリスカとアキラについて、興味深い点は、妻の名が先に記されていることです。当時の慣例では男性の名が先に来るのが普通でしたから、この順番は意図があってのことと見てよいでしょう。教会の働きにおいて彼女のほうが前面に出ていたから、という説明が有力です。クランフィールドは、彼女が先に信仰に入って夫を導いた可能性や、社会的な地位の高さも挙げています。ガヴェンタは、このリストでパウロが一貫して目を向けているのは福音との関わりであるとして、ここもその線で理解しています。二人は「私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました」と記されています(ローマ16章4節)。
※ プリスカの名が先に置かれる理由については、クルーズとガヴェンタの注解書を参照しました。クランフィールドの見解は、クルーズの注解書に引かれたものによります。
アンドロニコとユニアは「私の同胞で私とともに投獄された」人々であり、「使徒たちの間でよく知られて」いました(ローマ16章7節)。この一節には、性質の異なる二つの論点があります。
一つはユニアの性別です。新改訳2017は本文で女性形の「ユニア」を採り、脚注に別訳として「ユニアス」(男性)を挙げています。近代の翻訳は長く後者を採用してきました。古代のギリシア語写本は大文字だけで記され、アクセント記号がありませんので、この語を女性名と読むか男性名と読むかは、後世の編集者の判断に委ねられていたことになります。しかし、男性名として読むために必要なアクセントの形には写本上の根拠がなく、そもそも古代の資料に「ユニアス」という男性名の用例は一つも見つかっていません。ペーター・ランペは「ユニア」の用例を250以上調べ、「ユニアス」は皆無だと報告しています。オリゲネスもクリュソストモスも、中世に至るまでの注解者たちも、この人物を女性として読んできました。その点からも、これは女性名で取るのが自然だと言えるでしょう。
もう一つは、「使徒たちの間でよく知られて」という句の意味です。”ἐπίσημοι ἐν τοῖς ἀποστόλοις”は、「使徒たちの一員として際立っている」とも、「使徒たちの側からよく知られている」とも読めます。前者なら二人は使徒であり、後者なら使徒ではありません。マイケル・ビューラーとダニエル・ウォレスは、古代の文献に見られる同種の言い回しを集め、この形は後者の意味で用いられるのが通例だと論じました。これに対しリンダ・ベルヴィルは、範囲を広げて文献と碑文にあたり、前者の読みこそ用例に支えられていると反論しています。どうやら、この議論の決着はついていないようです。前者を取るなら、ユニアは新約聖書で唯一、使徒と呼ばれた女性ということになります。ただしその場合も、ここでの「使徒」が12使徒やパウロと同格の職務を指すのか、巡回伝道者に近い意味なのかで、さらに見解が分かれています。
コラム
ビヴァリー・ガヴェンタは、二人が使徒の一員なのか、それとも使徒たちに知られていただけの人物なのか、という形で問いを立てること自体に疑問を呈します。なぜなら、ある人物がある集団によく知られていることと、その人物がその集団に属していることとは、両立するからです。彼女が挙げるのは「エミリー・ディキンソンはアメリカの詩人たちによく知られている」という例です。この文を読んで、ディキンソンは詩人ではないと考える人はいません。むしろ詩人だからこそ、詩人たちに知られています。
同じことが16章7節にも言えます。「使徒たちによく知られていた」と読んだとしても、それは二人が使徒ではなかったことの証明にはなりません。それは、使徒であり、かつ他の使徒たちに知られていた、と理解しても、何の矛盾もないからです。
ガヴェンタはさらに、文法上の議論よりも重要な根拠を挙げます。パウロは16章で26人に触れますが、誰一人として他人からの評判によって紹介していません。同労者である、命を危険にさらした、労苦した、共に投獄された。示されるのは、その人自身と福音との関わりです。7節だけが例外で、他の使徒たちからどう見られていたかを伝えている、と読むのは不自然だというのが、彼女の判断です。こうして、ガヴェンタはアンドロニコとユニアを、使徒に含めて理解しています。
どちらの読みを取るとしても、変わらないことがあります。パウロは使徒について語るとき、しばしば苦難と共に語ります。第二コリント書11章では、自分が使徒であることの証しとして、投獄や鞭打ちや難破を挙げていますが、ここでも同じです。アンドロニコとユニアは、同じ7節の中で「私とともに投獄された」人々だと紹介されています。
※ ユニアの名前をめぐる議論、および”ἐπίσημοι ἐν τοῖς ἀποστόλοις”の解釈をめぐる議論については、トールマンとクルーズの注解書を参照しました。両書に、関係する研究の紹介と評価がまとめられています。コラムの内容は、ガヴェンタの注解書によります。
「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく」(ローマ16章13節)。
16章で挙げられている人たちの中で、名前が伝わっていない人が二人いると先に述べました。そのうちの一人が、ここに記されています。パウロはこの女性を、自分の「母」とも呼びます。まだ訪れたことのない町に、母と呼ぶような人がいたということは興味深いことです。
そして、16章でパウロが人々を呼ぶ言い方には、共通するものがあります。フィベは「私たちの姉妹」であり、ルフォスの母はパウロの母でもあります。「愛する」という語が四回使われ、プリスカとアキラは「同労者」、アンドロニコとユニアは「ともに投獄された」者です。家族の呼び名と、苦労を共にした者への呼び名が使われていることがわかります。
ここからさらに踏み込んで解釈するのがマイケル・ゴーマンです。パウロにとって信仰とは、キリストの十字架にかたどられて生きることでした(クルシフォーミティ)。自分の利益よりも、他者のために自分を与える生き方です。そして16章で挙げられる人々は、それをすでに実践していたというわけです。プリスカとアキラは他人のために命を危険にさらし、アンドロニコとユニアは投獄を経験し、フィベは自分の資力で多くの人を支えています。パウロが手紙で教えてきたことを、この人たちは先に生きていたことになります。
※ 16章の人々を、十字架にかたどられた生き方の実例と見る捉え方は、ゴーマンの注解書によります。
※マイケル・ゴーマンの神学についてさらに知りたい方は下記の記事もご覧ください。
受取人に思いを馳せて
ここまで読んだところで、1章に戻る準備が整いました。
16章に並ぶのは、26人の実在の人々です。そこには、奴隷や解放奴隷がいて、ユダヤ人と異邦人がいて、東方からの移住者がいます。互いを姉妹と呼び、母と呼び、命を懸けて他人を助けた人たちです。彼らはローマの町で、家々に分かれて集まり、フィベが携えてきた手紙を順番に聞きました。
そして、このことから分かることは、ローマ書簡というのは、そのような人たちに向けて書かれた手紙だということです。ローマ書には、「贖い」「和解」「奴隷」といった語が繰り返し出てきます。これらは、一見すると、神学的で抽象的な用語として受け取られがちです。ですが、ローマの町に暮らすこの手紙を最初に聞いた人々にとっては、まさに生活に直結した事柄であったと言えます。代価が支払われて自由の身になった人が実際にいましたし、誰かの奴隷として生きるとはどういうことかも、身をもって知っていました。16章を読んだ後では、このような実際の生活に即した言葉を、身近なこととして聞いていた人々がどのようにこの手紙を受け取ったかを考えながら読むことができるのではないでしょうか。
参考文献
本記事における聖書の引用は、聖書 新改訳2017(新日本聖書刊行会)によります。
Beverly Roberts Gaventa, Romans: A Commentary. The New Testament Library. Louisville: Westminster John Knox, 2024.
Michael J. Gorman, Romans: A Theological and Pastoral Commentary. Grand Rapids: Eerdmans, 2022.
Colin G. Kruse, Paul’s Letter to the Romans. Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids: Eerdmans, 2012.
Frank S. Thielman, Romans. Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids: Zondervan, 2018.
