「焼き尽くす火」という言葉から、どのような印象を抱くでしょうか。
聖書に見られるこのような表現から、しばしば世界が炎に包まれる光景が連想されることがあります。空が赤く染まり、山が崩れ、地上のすべてが焼き払われていく。このようなイメージは、映画や文学などの中にも散見され、いわゆる「終末論」として聖書が語る終末のイメージが世間に浸透している現状があるように思われます。
しかし、聖書が「火」について語るとき、そのような外部のイメージを持ち込むことには慎重になる必要があります。そこで、今回の記事では、神と火の関係について考察します。
火はどこから来るのか
今回主に参照するのが詩篇97篇です。
火はそのみ前に行き、 そのまわりのあだを焼きつくす。
詩篇97篇3節(口語訳)
詩篇97篇は、主が王であるという宣言から始まり、王の到来を喜べと呼びかけます。その描写の中で、まず語られるのが火です。
ここで目を留めたいのは、この火がどこから来ているのかということです。火は「そのみ前に行き」と言われます。つまり、王の行列の先頭を進む使者のように、ここで火は主の到来を告げながら進むものとして描かれています。
そしてこの構図は、詩篇97篇に特有のものではありません。詩篇50篇にもほぼ同じ描写があります。
われらの神は来て、もだされない。 み前には焼きつくす火があり、 そのまわりには、はげしい暴風がある。
※黙す(もだす)
詩篇50篇3節(口語訳)
ここでも、火は神の御前にあります。そして、この節で語られている中心は火のことではなく、「われらの神は来て」ということです。主語は神であり、火はその到来に伴う描写です。
ダニエル書には、さらに踏み込んだ描写があります。『新改訳2017』は、詩篇97篇3節の「火」の脚注に、この箇所を参照として挙げています。
そのみ座は火の炎であり、 その車輪は燃える火であった。 彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。
ダニエル書7章9-10節(口語訳)
ここでは、御座そのものが火の炎であり、火の流れは御座の前から出てくるとあります。要するに、火の出どころは、神がおられるところ、だと言えます。
シナイ山で起こったこと
これらの一連の神と火に関する描写には背景があります。シナイ山における神の顕現について、申命記でこのように語られます。
そこであなたがたは近づいて、山のふもとに立ったが、山は火で焼けて、その炎は中天に達し、暗黒と雲と濃い雲とがあった。時に主は火の中から、あなたがたに語られたが、あなたがたは言葉の声を聞いたけれども、声ばかりで、なんの形も見なかった。
申命記4章11-12節(口語訳)山は火に包まれました。しかし、その火は山を滅ぼすためのものではありませんでした。主がその火の中から語られたのです。火は、神がそこにおられることを示す場所であり、同時に、その姿を人の目から覆うものでもありました。
このような「火」の特徴は、荒野の旅路でも見られます。民を導いたのは、火の柱でした。火は、神が共におられることのしるしです。
これらの箇所に共通しているのは、火が単独では現れない、ということです。常に、神の到来に伴うものが「火」です。
もっとも、聖書における「火」の用法がすべてこの意味というわけではありません。ときに火は、さばきの執行そのものを指すこともあります。ソドムに降った火は、神が現れる場面の描写ではありません。
とはいえ、神と「火」のつながりは聖書の多くの箇所が支持しています。詩篇97篇や50篇のほかにも、詩篇18篇、エゼキエル書1章、ハバクク書3章、そして出エジプト記の19章と24章。注解書がこれらを並行箇所として列挙するのは、同じ型の描写がそこで繰り返されているからです。そしてこの型において、火は常に、神に伴うものとして描かれています。
そして、もう一つ注目すべき点があります。それは、この神顕現を描写する言葉が、そのまま「主の日」を語るためにも用いられている、ということです。ヨエル書2章2節は終わりの日を「雲の群がるまっくらな日」と呼び、ゼパニヤ書1章15節も「雲と黒雲の日」と語ります。口語訳聖書では訳し分けられていますが、原語では、詩篇97篇2節の「雲と暗やみ」と同じ言葉の組み合わせが使われています(新改訳2017では「雲と暗闇の日」と同じ訳語が当てられていてわかりやすいです)。
このように、シナイ山での神顕現を描くフレーズが、そのまま終わりの日を描く言葉になっています。この事実は、「終末」の「火」が何を意味するのかを考えるうえで、大きな手がかりになるように思われます。
新約における「焼き尽くす火」
ヘブル人への手紙に、注目すべき一節があります。
このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。
ヘブル人への手紙12章28-29節(口語訳)
ここで語られているのは、神が(終末の際に)火を用いられるということではありません。神ご自身が焼きつくす火である、と言われています。 火は、神の道具ではなく、神ご自身を描写する言葉になっています。
そして、この表現は、申命記4章24節に由来します。モーセがシナイ山での出来事を語り直した文脈で、偶像に走らないよう戒めながら述べた言葉です。つまり、『ヘブル人への手紙』は、シナイ山での火の記憶を、そのまま神ご自身の描写として受け継いでいます。
そして、さらに注目すべきは、この29節の「神は、焼き尽くす火」というこの言葉が、決して脅しとして語られているわけではなく、感謝の理由として語られているということです。「震われない国」(揺り動かされない王国)を受けているのだから感謝しよう、しかもその感謝は恐れかしこみつつささげるものである、なぜなら私たちの神は焼き尽くす火だからである、という流れです。
もちろん、「火」というイメージに込められている重み(神への畏れ・恐れを含む)が軽くなっているわけではありません。しかし、そのような厳粛さは、むしろ感謝の意味を深めていると言えます。
世界が焼き尽くされる、という「誤解」について
とはいえ、聖書には世界そのものが火に焼き尽くされるかのように読める箇所があります。代表的なものとしては、ペテロの手紙第二3章10節が挙げられます。
しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
ペテロの第二の手紙3章10節(口語訳)
ここだけを読むなら、終末に世界が焼き尽くされるという理解は、ごく自然に思われます。
ところが、同じ箇所が新共同訳ではこうなっています。
主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。
ペトロの手紙二3章10節(新共同訳)
一読してわかるように、最後の部分が違います。焼き尽くされるではなく「暴かれる」となっています。新改訳2017も、脚注でこの異読について触れられています。
実は、この訳が分かれているのは、厳密に言えば、写本の間で読み方が分かれているからです。これは聖書学におけるよく知られた問題で、最も古い写本群が支持しているのは「焼き尽くされる」ではなく、「見いだされる」「暴かれる」という読み方なのです。
この箇所に関する注解(WBC)を書いたリチャード・ボウカム氏は、「暴かれる」を採用したうえで、次のように解釈します。「見いだされる」とは、地と、そこで行われた人間のわざとが、神の前に、その司法的な吟味の前に露わにされるという意味である。悪しき者が神の吟味から隠れることは、もはや不可能になる。
さらにボウカム氏は、この節にある「大音響(激しい音)」という語についても指摘しています。これは火の轟音というより、神の御声の雷鳴を指す可能性が高く、というのもそれは、神の顕現を描くときの常套的な要素だからです。
そのうえで彼は、この節全体が、裁き主なる神の到来を描いたものだと結論します。火の心象を字義的に受け取るべきではなく、ペテロ書簡の著者の関心は、裁きがどのような物理的形態を取るかを予測することにはなく、神の裁きの光景を喚起することにあった、とというわけです。
このことは、意外なところからも裏づけられます。英語訳(ESV)におけるこの節の脚注を見ますと、そこに挙げられているのは、イザヤ書34章、ミカ書1章、ナホム書1章です。先ほど、神顕現の場面を描写する箇所として挙げたものと重なります。 第二ペテロ書簡がここで用いているのは、旧約において描写されてきた神の到来を表す言葉と繋がっているということが読み取れるのではないでしょうか。
それゆえに、ここでもやはり、来るのは火ではなく、神だと結論づけられます。 火はその到来に伴う描写です。
火と神の関係
こうしてたどってみると、冒頭で触れたような一般的な「火」のイメージがどこから生まれてくるのかが見えてきます。つまりそれは、火を神から切り離し、独立した破壊の力として思い描くところから生まれています。
しかし、聖書はそのようには語っていません。詩篇97篇で描写される「火」は主の前を進み、詩篇50篇の「火」は神の到来に伴い、ダニエル書の「火」は御座から流れ出し、シナイ山の「火」の中から主は語られ、ヘブル人への手紙は神ご自身を「焼きつくす火」と呼びます。火は、はじめから終わりまで、神の臨在に関する言語です。
これらの点を踏まえるなら、終末において語られる「火」もまた、世界を焼き尽くす予告ではなく、神がこの地に来られるということの描写として読むべきではないでしょうか。恐ろしいのは、火そのものではなく、神ご自身が、どのような方であるのかということです。
そして、ヘブル書が、「焼き尽くす火」という言葉を感謝の理由として語ったのは、そのためだと思われます。つまり、この方を軽んじることはできない。しかし、この方が来られることは、揺り動かされない神の国を受ける者にとって、感謝すべき事柄である。
このように「火」を神から切り離し、それ自体を恐ろしいものと考えるのは、おそらく聖書的な理解からは少し離れてしまうのではないかと思います。
主の臨在がこの地に満ちる時
これは本記事における余談になりますが、このような疑問が浮かぶことがあると思います。それは、神の臨在がこの地に満ちるとき、その臨在は、誰にとってどのような経験となるのか、ということです。
おそらく、この問いは、火の問題ではなく、関係の問題だと言えます。以前、「地獄はどこにあるのか」という記事で、「地獄」が場所ではなく、本来結ばれるべき関係が結ばれていないという現実であることについて考えました。
主の臨在がこの世界に満ちる時に、天国と地獄という全く別の二つの場所にそれぞれが行くと考えるよりも、同じところにいながら、抱く思いが全く異なると考えることもできます。たとえるなら、同じ教室で同じ授業を受けていながら、一人は時間を忘れて楽しみ、もう一人は耐えている、という状態です。この違いは、感じ方の問題ではありません。その先生と、学ぶ者としての関わりを持っているかどうかの違いです。
あるいは、「二人の失われた息子」のたとえ話にも通じていると言えます。兄息子は、家を出た弟とは違い、ずっと父のもとに住んでいました。それでも、父が祝宴を開いて喜んでいる、その同じ家の中で、彼は喜ぶことができませんでした。
聖書が終末の「火」について語るとき、それは神の到来を指し示していました。だとすれば、主の日に問われるのは、火がどれほど激しいかということではなく、到来される方ご自身、私たちがどのように知っているか、ということになるのではないでしょうか。
