これまでの連載で論じてきたパウロの終末論は、遠い未来の出来事についての観念的な議論にとどまるものではありません。来るべき時代の現実は、現在の私たちの日常を作り変えていく力を持っているのです。
第8回までで来るべき時代の出来事を扱い、第9回で希望と栄光、第10回で聖霊の働きについて考えてきました。今回はこれらの神学的洞察が、教会、働き、被造物への態度といった具体的な領域にどのような影響を与えるかについて、Campbell の議論に沿って考えていきます。
終末論的共同体としての教会
パウロにとって、教会は単なる宗教団体でも、信者の集まりでもありません。教会は終末論的共同体であり、来るべき時代の先取りそのものです。
第10回で見たように、聖霊は来るべき時代を現在にもたらす方です。その聖霊が住まわれる場所が教会である以上、教会の本質は終末論的なものとならざるをえません。Campbell が指摘するように、教会が終末論的共同体であることをやめるなら、それはもはや真の教会ではなくなります。キリストを中心とすることと、終末論的であることは切り離せないのです。
ここで興味深いのは、教会が「すでに新しくされた」共同体であるという点です。第7回で扱った新しい創造のテーマを思い起こすと、信仰者は今すでに新しい創造の初穂であり、教会はその初穂の集まりだと言えます。つまり教会は、来るべき時代に到来する新しい世界を、今この時代に先行して指し示すしるしなのです。
教会の交わり、礼拝、互いへの愛のかたちは、世にとって来るべき時代の証言となりうる、まことに厳粛な事実です。
働きにおける二つの誤り
「働くこと」について、パウロが警告するであろう二つの誤りがあると Campbell は指摘します。
一つは、来るべき時代がないかのように働くこと。物質的な富や成功や快適さそのものを目的とする働き方です。もう一つは逆に、終末論を持ち出して働きの意味を消去すること。「どうせこの世は過ぎ去るのだから」という理屈で、地上の労働を無価値なものとして扱う態度です。
両方とも、誤った終末論から生じます。なぜなら、第7回で扱ったように、来るべき時代は現在の世界の「置き換え」ではなく「刷新」だからです。今ここでの労働は、来るべき時代に向けて意味を持ちうるのです。
ただし、これは私たちの働きが来るべき時代を「もたらす」という意味ではありません。来るべき時代は、ただ主の到来によって与えられるものです。私たちの働きは、来るべき時代を待ち望む宣言として、また来るべき時代の価値を先取りする行為として、意味を持つのです。
ですから、コロサイ書のような書簡では、奴隷の労働でさえも主から相続を受け取るに値する尊い行為として描かれているのでしょう(コロサイ3:22-24)。
22僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。
コロサイ人への手紙3章22-24節(口語訳聖書)
23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。
24あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。
被造物への配慮
人間の働きと並んで、被造物への態度もまた、終末論によって方向づけられるべき領域です。
Campbell は、パウロ自身が現代的な意味での環境問題を直接論じていないと認めつつ、パウロの終末論が被造物への態度に確かな方向性を与えると指摘します。
ここでも再び二つの誤りがありえます。一つは、現在の世界と来るべき時代の非連続性を過度に強調すること。「どうせ滅びる世界」と扱うなら、被造物を粗末にしても構わないという結論になりかねません。もう一つは、新しい創造を私たちの取り組みの成果として理解すること。これは終末論を人間の活動に解消してしまう誤りです。
聖書が描くのは、現在の被造物が「破壊されて終わる」のでもなく、私たちの努力によって「新しくされる」のでもなく、神ご自身によって刷新されるという未来です。パウロが描いているのは、被造物全体が今もうめき、産みの苦しみをしている姿でした(ローマ8:22)。だからこそ、来るべき時代の価値を先取りしながら、被造物への配慮を持って生きることに意味があるのです。
今、ここで先取りすること
教会、働き、被造物。これらはまったく性格の異なる領域に見えますが、終末論という観点から見れば、いずれも「来るべき時代を先取りする場」として共通しています。
私たちは「すでに」と「いまだ」の間に立ち、来るべき時代の現実を現在の生活において表現するよう召されているのです。
The church must be characterized by an eschatological perspective and by the hope of glory. Just as all believers straddle this present age and the age to come, so the wider communion of believers does so on a corporate level. If the church ceases to be an eschatological community, it will cease to exist as a true church. A church that does not long for the coming of Christ has lost its way. A church that is not living as in the daytime amid this present darkness cannot reflect the light of Christ to a lost world. A church that does not cling to the hope of resurrection will live without hope. And a church without hope is an oxymoron.
教会は、終末論的視点と栄光の望みによって特徴づけられねばなりません。すべての信仰者がこの現在の時代と来るべき時代との双方にまたがって立っているように、信仰者の交わりとしての教会もまた、共同体のレベルにおいて同じことをしています。教会が終末論的共同体であることをやめるなら、それは真の教会としては存在しなくなります。キリストの再臨を待ち望まない教会は、その道を見失っています。現在のこの闇の只中にあって、昼間にあるかのごとく生きていない教会は、失われた世にキリストの光を映し出すことができません。復活の希望にしがみつかない教会は、希望なしに生きることになります。そして、希望のない教会など、形容矛盾なのです。
Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2020), 462.
ぼくどくメモ
「終末論」と聞くと、どこか自分の日常から遠く離れた世界の話だと感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかしパウロにとって、終末論は地に足のついた、もっとも日常的なテーマだと言えます。日曜日の礼拝も、月曜日の仕事も、あるいは空や海や山を眺めることも、すべてが来るべき時代との関係において意味を帯びるのです。
これは私自身にとっても挑戦です。教会を出た瞬間に、終末論的な視点をどこかに置いてきてしまうことがどれほど多いことか。忙殺される日々の中で、来るべき時代の価値を先取りして生きることは、決して簡単ではありません。
しかしそれこそが、パウロが求めている生き方なのでしょう。聖霊が「現在の経験に侵入してくる未来」(第10回 Campbell 引用)であるなら、私たちの日常もまた、来るべき時代がそこに侵入してくる場所であるはずです。
参考文献:Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2020).
