あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。 どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アーメン。

第一ペテロ5:10-11(口語訳聖書)

ペテロは手紙の締めくくりに、苦難の中にある読者へ力強い約束の言葉を送りました。ここで注目すべきは、私たちが経験する「苦しみ」が決して無意味なものではなく、神のあふれる恵みによって私たちを「完全」へと導くためのプロセスとして位置づけられている点です。

この箇所で「いやし(あるいは「回復し」「完全な者とし」)」と訳されているギリシア語は、「κατάρτιζω(カタルティゾー)」という単語です。本来は「調和を取る」「整える」という意味であり、破れた網を繕ったり、あるいは外れてバラバラになった骨を元の位置に戻して繋ぎ合わせたりする医学用語としても使われました。 つまり、試練とは、神が私たちの傷ついた人格や揺らいだ信仰を、本来の健全な状態へと丁寧に修復し、整形してくださる時間なのです。

さらにペテロが重ねて用いた「強め(堅くし)」「力づけ(強くし)」「不動のものとして下さる」という3つの表現は、いずれも土台の上に建つ建造物を連想させます。骨組みが修復された後、私たちの信仰は、ちょっとやそっとの嵐では揺るがない強固な構造へと、神ご自身の手によって造り変えられていくのです。

しかしながら、このメッセージは「苦しいけれど、気合いで乗り切れ」という単なる精神論ではありません。ペテロが強調するのは、こうした完成が「あなたがたを招いた神の恵みの中に」実現するという事実です(5:10)。 苦しみの渦中にある私たちが、能動的に自分自身を整えなければならないのではありません。キリストにあって、神の恵みが私たちの内に働き続けているのです。続く11節で「どうか、力が世々限りなく、神にあるように」と宣言されている通り、完成へと至る力はすべて神に由来しています。

苦しみや悲しみが深いとき、「神の恵みが十分に機能している」と実感することは非常に困難です。しかし、聖書全体の証言を見れば、苦難は神に見離された証拠ではなく、むしろ神がその人生に深く関わり、新たなる形へと造り変えている「恵みの場」である可能性が高いと言えるでしょう。パウロも「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」と語り、神の目には苦難が人格の成熟へと至る不可欠な道筋であることを認識していました。

苦しみの中にある時、この言葉をどのように受け取ればよいでしょうか。「しばらく」という言葉は、その苦しみが永遠に続くものではなく、神の壮大な計画の中では一時的であることを示唆しています。そして、その期間を通じて、神は私たちの信仰を、人生を、そして人格を、復活の命に向けて確かに造り変えておられるのです。

十字架で最大の苦しみを引き受けられたキリストは、そのただ中からこそ、神の栄光が最も力強く輝くことを示してくださいました。今、直面している小さな試練、あるいは深い悲しみの中で、傷を癒やし、私たちを本来の姿へと整えてくださる神の御手が働いていることに、そっと目を向けてみたいものです。