今年から借りた畑で、本格的な農作業のシーズンに入りました。といっても、初級者らしく、はじめは無理のない範囲で、最初の作業である「土作り」と「畝立て」を先日行ってきました。
そこはこれまで有機農法で使われてきたということで、その土は、足を踏み入れるとふかふかな柔らかさが感じられ、丁寧に管理されてきたことが伝わってきます。今回はそこに、さつまいもとかぼちゃの苗を迎えるための陣地を構築すべく、5mほどの畝を3本作る作業からスタートしました。
私は全くのど素人ですので、地主さんから手取り足取り教わりながらの作業です。土壌のpHを調整するために貝殻を原料とした有機石灰をまぶし、栄養分としてEM菌を含んだ鶏糞を土に混ぜ込みます。さらに、リン酸系の堆肥と、微生物が豊富に付着しているという有機系の籾殻も追加し、最後に土の温度を上げるためのマルチシートを張ってきました。

この作業を通して認識させられたのは、農業がイメージしていたようないわゆる「牧歌的で」「感覚的な」営みではないという事実です。
ちょうど畑の近くで偶然知り合った、品評会で一位を取るほどの腕前を持つお隣の若き農家さんから、「BLOF(Bio Logical Farming)理論」という科学的なアプローチについて少し学ぶことができました。窒素が多すぎれば葉ばかりが茂る「ツルボケ」になり、リン酸が不足すれば根や実は育たない。窒素が過剰であれば、微生物のついた籾殻(炭素)を投入し、微生物に窒素を消費させてバランスを取る。農業とは、土の中の成分を計算し、足し算と引き算を繰り返しながら最適な環境を構築していく、ロジカルで知的な作業です。
ただし、ここに農業のパラドックスがあります。
どれほど緻密に土壌のpHを測り、窒素とリン酸のバランスを計算し、適切なタイミングでマルチを張ったとしても、最終的に苗が根付き、実を結ぶかどうかは、人間のコントロールを超えた領域にあります。日照時間、降雨量、土の中で進行する微生物の発酵プロセス。それらに「委ねる」ほかありません。
だからといって、人間は何もしなくていいわけではありません。思い浮かぶのは、第一コリント3章6-7節の有名な言葉です。
わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。
コリント人への第一の手紙3章6-7節(口語訳聖書)
苗を植え、水を注ぐ。この準備の領分は、人間に託された物理的・知的な責任です。しかし、そこに命を吹き込み成長させるのは神の領域である。この境界線が、土と向き合う中でますます鮮やかに認識させられていきました。
ここでもう一つ別の問いが残ります。それは、境界線の人間側にある「準備」とは、具体的にどのような性質の作業なのか、ということです。
先日読んだ本に、聖書学者ブルース・ウォルトケの言葉がありました(孫引きとなってしまいますが…)
聖書を読むことは、花粉を集めるようなものである。聖書について深く黙想することは、ハチミツを作るようなものである。(ブルース・ウォルトケ)
ケリー・M・カピック、藤野雄大訳『シンガクすること, 生きること—いちばんわかりやすいキリスト教神学入門—』(一麦出版社、2022年)、106頁
土に石灰を撒き、数値を測り、肥料を混ぜてマルチを張る。それをしたからといって、翌日にかぼちゃが収穫できるわけではありません。それはすぐに結果や利益を生まない、地味で泥臭い作業です。
日々の聖書の学びもこれと同じです。毎日、劇的な感動や新しい発見(ハチミツ)があるわけではありません。退屈に感じながらも、淡々とテキストと向き合う日々が続きます。しかし、この「花粉集め」を継続しなければ、ミツバチの体内で酵素と結びついて甘いハチミツが生成されないように、私たちの内側で深い黙想による収穫が生まれることはありません。
ハチミツは、ある日突然、無から生み出されるものではなありません。日々の地道な花粉集めの蓄積だけが、それを可能にします。
畑の土の中では今、目に見えない微生物たちが、撒かれた籾殻や鶏糞をゆっくりと分解し、苗を受け入れる準備を進めています。私が撒いたものを、私の手の届かない場所で、生き物たちが作業の続きを引き受けている。しかし、最終的にそれを実らせるのは神である。
これらの三つの層のうち、私に委ねられているのは最初の一層だけです。つまり、土を整えること。これは、聖書のページをめくり、聖書から学ぶ地道な歩みにも通じているように思います。これらは、その場で完結する作業ではありません。私が撒いた肥料がどの微生物に渡り、どの根に届くのか、この目で追うことはできません。あるいは、読んだ聖書の言葉が、いつ、どこで、どのような形で他者に届くことになるのかも、今の時点では知り得ないことです。
撒いた種がどこで実るのかは、私には見えない。畑で学んだこの事実は、日々聖書を学ぶ歩みにもそのまま当てはまるのだと思います。それは消極的な諦めではなく、自分の手を離れた先で続いていく働きに、自分の作業を委ねていく営みです。
