先週、一週間のうちに葬儀と結婚式の両方がありました。悲しみの場と喜びの場に続けて立つというのは、牧師にとっても独特な体験です。しかしその中で、改めて気づかされたことがあります。それは、感情の方向はまったく逆であるにも関わらず、どちらも同じ「礼拝」であるということです。
では、なぜこの二つが同じ「礼拝」という枠に収まるのでしょうか。その鍵は「愛」の性質にあります。パウロはローマ書の中で、愛を独特な負債として描いています。
互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。」
ローマ人への手紙13章8節(口語訳聖書)
他の負債は返済によって完結します。しかし愛し合うことへの負債は、返し終わることがありません。結婚の誓いはこの負債を引き受ける宣言であり、葬儀における悲しみはその負債がいかに深かったかを物語っています。
一方、葬儀の深い悲しみの中では、祈りの言葉そのものが失われることがあります。
御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
ローマ人への手紙8章26節(口語訳聖書)
祈りの言葉が出ないという状況は、礼拝が成立しないことを意味しません。御霊がとりなすという仕方で、礼拝は成り立っています。
そして、この愛の起点は人間の側にはあるわけではありません。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
ヨハネの第一の手紙4章10節(口語訳聖書)
人間の愛は、神からの先行する愛への応答です。結婚式における誓いも、葬儀における嘆きも、この返し終わらない愛の連鎖の中にあると言えます。
いわゆる「式典」と「礼拝」の違いは、重心の置き方にあります。式典においては、人間の行為が中心です。誓い、別れ、感謝。それらは参加者の行為として、人間の側で完結します。しかし、礼拝においてはその重心が異なります。人間のあらゆる行為が「神からの愛への応答」として意味を持ち、完結するのは人間の側ではなく、神との関係の中においてなのです。
葬儀と結婚式を同時に経験した一週間。悲しみの中での祈りと喜びの中での祈り。その落差は小さくありませんでした。しかし、その礼拝がささげられる対象はどちらも同じ主なる神です。結婚式と葬儀が同じ「礼拝」と呼ばれるのは、その本質を表しているからに他なりません。
