記録的な円安、物価の高騰、そして金利の上昇。私たちの日常は今、資本主義という巨大なシステムの波に大きく揺さぶられています。生活の基盤が脅かされ、多くの人が「どれだけ持っていれば安心できるのか」という終わりのない不安のゲームに駆り立てられている現代において、教会という共同体はどのような役割を果たすことができるのでしょうか。
今回は、この社会の現実を見据えながら、教会が提示し得る「実践的な希望」について考えてみたいと思います。
理念を「実体のある現実」にする
どれほど高尚な神学や理念を語っても、それが日曜日の礼拝堂の中だけで響く空虚なスローガンであっては意味がありません。信仰とは、月曜日から土曜日までの泥臭い現実の生活と結びついて初めて実体となります。
このことは、実際の信仰生活においても、避けては通ることのできない重要なテーマです。それでは、「信仰」がただの理念に成り下がってしまうことのないように、どうしたらよいでしょうか。
たとえば、資本主義のシステムからこぼれ落ち、経済的・精神的な痛みの中にある人々に対して、ただ「祈っています」と告げるだけではなく(もちろん、それに意味がないとは言いませんが)、その先の一歩を踏み出すことに意味があると思います。具体的には、共に食事をすること、共に時間を過ごすこと。コミュニティに迎え入れることは、親しい関係であることを豊かに示す行動です。
このような地道で人間くさい関わりの中にこそ、聖書の語る「愛」は初めて手足を持った現実として現れるのです。
「小さな経済圏」という静かな抵抗
しかし、ここで多くの人は思うはずです。 「そんな些細なことをしたところで、何の根本的な解決にもならないではないか」と。
確かにその通りです。たった一回食事を共にしたところで、いっときはお腹が満たされるかもしれませんが、時が経てばまた元通りです。結局のところ、お金という絶対的な壁を前に、教会はお札を刷ってすべてを解決することなどできないと、私たちは痛いほど知っています。
しかし、そこで絶望してしまっては、教会の役割を果たすことはできません。むしろ、これまでの長い歴史の中で、さまざまな社会システムの荒波に揉まれながらも教会が立ち続けてきた事実を思う時、教会にしか果たし得ない大きな意義があると思うのです。
その一つが、現代の資本主義——つまり「等価交換(払った分だけ得る)」という論理——とは異なる、無償の恵みに基づく「小さな経済圏」を築くということです。
例えば、共同体(コミュニティ)の中で、それぞれが持っている特技や賜物を生かし、お互いのために用いることはできるでしょう。料理が得意な人は食事を振る舞い、子どもと過ごすのが好きな人は一緒に遊んだり勉強を教えたりする。農作物を作っている人は、余剰分を分かち合う。これらはGDP(国内総生産)には計上されませんが、現金がなくても生きていける「関係性のセーフティネット」を生み出します。
これは、システムによって富の再分配を強制する「共産主義」とは根源的に異なります。人間の力でユートピアを作れると驕るのではなく、人間の弱さや自己中心性(罪)を深く自覚した上で、神の恵みに対する「自発的な応答」として行われる分かち合いだからです。完璧な社会制度など存在しない世界の中で、失敗を許容し、ただそこにいるだけで尊厳が守られる場所を維持することは、利益至上主義に対する最も力強く、静かな抵抗になります。
社会のシステムそのものを根底から変えることはできません。資本主義であれ共産主義であれ、どんなシステムにも功罪があり、そこからこぼれ落ちる人は必ずいます。
では、どうしたらいいのか。教会が示すことができるのは、「この世のシステムがすべてではない」という事実です。この世の尺度から弾かれてしまったとしても、それで人生が終わるわけではない。命の価値がなくなるわけではない。その「もう一つの生き方」を提示できるのが、教会なのです。
この社会では「お金があればすべて解決する」と考えられがちです。だからこそ、お金がなくなれば生きる望みすら失ってしまいます。しかし、私たちの生活の1〜2割であってもかまわないのです。資本主義の価値観だけがすべてではないと実感できるコミュニティがあること。それだけで、人は生きる希望を見出すことができます。
すべての指針となる問い:「これは、誰のためか」
しかし、このような理想を掲げ、実践し続けることは容易なことではありません。 資本主義は、ある種の麻薬のようなものです。お金さえ出せば、手っ取り早く欲しいものが手に入る。だったら、お金を稼ごう。そう考えるのは極めて自然なことです。しかし突き詰めれば、それほどまでにその感覚が「当たり前」として麻痺してしまっているとも言えます。
そのような中で、この世の原理に飲み込まれずに歩むための、極めて実践的なコンパスがあります。それは、日々の選択において「これは、誰のためか」と問い直すことです。
例えば、車を買う時。それは自分の見栄を満たし、他者から羨望を集めるためのものか。それとも、必要としている人を乗せて、共にどこかへ向かうための道具なのか。 あるいは、何かのスキルを磨く時。それは自分の有能さを誇示するためか。それとも、それを活かして人のために用いるためなのか。
資本主義が徹底して自分の利益を求めることを優先するならば、「これは自分に何の利益をもたらすか」というノイズを断ち切り、「これは誰のためか」と問う時、私たちの視点は自分自身から他者へ、そして神へと向けられます。
重要なのは、この社会そのものを転覆させようとすることではなく、その中で教会に何ができるかを考え、実践することです。結局のところ、私たちはこれからも、この資本主義社会の中で生活を営んでいきます。しかしそのただ中にあって、私たちは確かな希望として、「もう一つの生き方」を指し示し続けることができるはずです。
