最初のさつまいもの苗を植えてから、一週間ほどが経ちました。植えた時よりも葉が大きくなっているので、どうやらうまく土に活着してくれたようです。ただ、中には瀕死の状態のものもあるため、近々植え替えが必要になるかもしれません。
第二弾としては、1回目の萎びた苗とは打って変わって、青々とした元気な苗を植えました。こちらも、まずはもう少し様子見といったところです。
こうして日々の生活の中で、今はほんの少しではありますが、自分の手で土に触れ、農耕に携わることができるのは、心身ともに大きなプラスであると感じています。
そもそも、なぜ私がひょんなことから自給自足を視野に入れた農業ライフを始めるに至ったのか。その理由の一つは、目まぐるしく変わりゆく社会の波に一喜一憂してばかりでは、本来与えられているこの命を、本当の喜びをもって生きることができないのではないか、と痛感したことにあります。
結局のところ、私たちは資本主義というシステムの中で生きています。それは極端に言えば、「お金があればすべてが解決する(少なくともその原理で動いている)」社会です。身近なことで言えば、食べ物はお金がなければ手に入りません。さらに言えば、優秀な医師や最先端の治療など、お金の有無が文字通り「命」さえも左右し得るという厳しい現実があります。
そのようなシステムの中で生きていると、誰もが無意識のうちに「お金こそが正義であり、最大の安心である」という考えに傾いていくのは必至です。そして、競争を前提とする以上、そこからこぼれ落ちて損をする人が出てくるのも、資本主義の避けられない設計図の一部です。
そのような社会にあって、教会が果たし得る役割の一つは、資本主義を真っ向から否定することではなく、「そのシステムだけが世界のすべてではない」と具体的に示すことだと思っています。
お金がなければやっていけないと思い込んでいる人が、「お金がなくても生きていける繋がりがある」と思える場所になること。もちろん、お金が不要だと言いたいわけではありません。お金の有無に人生のすべてを握られる「お金の亡者」になるのではなく、それ以外にも確かな価値があることに気づくこと。その「もう一つの生き方」を実践を通して示すのが、教会に託された大切な使命だと思うのです。
実際、多くの教会がすでにこのことを実践しています。その筆頭が「愛餐会(あいさんかい)」と呼ばれる食事の交わりです。多くの場合、数百円という負担で美味しいご飯が食べられ、そこには損得を超えた麗しい関係性があります。「お金がすべてではない」という安心感を、その食卓で誰もが実感できるはずです。
そして私自身もまた、その「小さな経済圏」のささやかな実践として、農業に挑戦してみることにしたのです。
とはいえ、まだまだ始めて間もなく、はっきり言ってこの取り組みが成功する保証はどこにもありません。今でさえ、さつまいもの苗がちゃんと根付いたのかどうか怪しい状態ですから、あまり大風呂敷を広げることはできません。
それでも、自分の手で育てた恵みを、コミュニティの仲間たちと共に分かち合う喜びを体験したいと願っています。そして、その泥臭い小さな一歩が、「お金がすべて」という強迫観念から私たちを解放する確かなきっかけになることを信じています。
そのためにも、まずは美味しいさつまいもが収穫できるように、目の前の土に向き合い、最善を尽くしたいと思います。
