夏の畑は、今とてもにぎやかです。大切に育ててきたカボチャもだいぶ大きくなり、収穫の時が近づいてきました。

先日、少し草取りをしようと畑に足を運びました。夏の畑ですから、土を掘り返せばミミズが出てきたり、葉の裏に幼虫がいたりと、ありとあらゆる昆虫たちと遭遇します。実は、私はもともとそういった類いの生き物が得意ではありません。しかし、不思議なことに、畑で虫たちと出会ってもそこまで苦にならず、むしろ「こんな虫がいるんだな」と静かに観察できている自分に気がつきました。

なぜだろうかと考えたとき、ふと思い当たることがありました。 それは、私自身が「畑という場所は、人間だけが占有するものではない」ということを、暗黙のうちに認めているからではないか、ということです。

もし、同じ虫が普段の生活圏である「家の中」に現れたら、間違いなく強い嫌悪感を抱くはずです。それは無意識のうちに、家を「自分の思い通りにコントロールできる自分だけのテリトリー」として握りしめているからです。しかし、一歩畑に出れば、そこは人間の支配の及ばない自然の空間です。蜂たちが飛び交って受粉をしてくれなければ、カボチャ一つ実ることはありません。畑にいるとき、私は無意識のうちに「自然の所有者」から「創造の世界の中で共に生かされている者」へと、立ち位置を変えていたことに気付かされました。

とはいえ、自然の営みは美しいことばかりではありません。 今回、カボチャの葉を観察していると、葉の表面に白い粉を吹いたような「うどん粉病」が発生していることに気がつきました。私の不勉強もあり、もう少し早めに予防してあげるべきでした。特になるべく農薬を使わない有機農法で育てているため、一度病気になってしまうと、それを治すような魔法の薬はありません。

それでも、ある程度は成長してくれているので、病気になった葉をすべて切り落として株を弱らせることはせず、ある程度の葉っぱを維持しながら、なんとかこのまま持ち堪えてもらう「収穫までの逃げ切り作戦」で見守ることにしました。

病気になっても、農薬で完璧にコントロールできなくても、カボチャはなお、力強く実を太らせようとしています。思い通りにならない自然の厳しさのただ中で、たくましく生きようとするその姿に、私はハッとさせられました。

私たちの人生もまた、神様が治めておられる広い「畑」のようなものです。 私たちはしばしば、自分の時間や計画、あるいは人間関係さえも「自分のテリトリー」としてコントロールしようとします。そして、予定外の問題や「病」のような困難が降りかかると、なんとかしてそれを排除し、完璧な状態に戻さなければと強い苛立ちや不安を覚えます。

しかし、夏の畑が教えてくれたのは、すべてを完全にコントロールしようと握りしめなくてもよい、ということです。 魔法の薬などなくても、あるいは「うどん粉病」という傷を抱えたままでも、命は育ちます。自分ではどうにもならない状況のただ中にあっても、見えないところで蜂たちが受粉を助けてくれたように、思いがけない助けが与えられ、神様の恵みの光が確かに注がれているからです。

すべてを自分の支配下に置こうとする思いを手放し、「思い通りにならないことも含めて、神様の御手の中にあるのだ」と認めることができたとき、私たちの心には不思議な平安が生まれます。

病気を抱えながらも、なお実を太らせようとするカボチャのたくましい姿。 それは、完璧ではない不確かな現実の中でも、私たちが神様の恵みに委ねて生きるとき、その傷ついた歩みそのものが、やがて確かな「実り」となっていくことを教えてくれているように思います。