はじめに
聖書を読んでいると、やもめ、みなしご、寄留者という三者が組み合わさって繰り返し登場することに気づきます。出エジプト記の契約法(20章から23章の律法集)にも、申命記の律法にも、預言者の告発にも、詩篇の祈りにも、この三者はほとんど定型句のように現れます(例えば出エジプト記22章、申命記24章、イザヤ書1章、詩篇94篇など)。訳語は聖書翻訳によって異なり、寡婦、孤児、寄留の他国人、旅びとなどとも表されますが、本稿では、やもめ、みなしご、寄留者と呼ぶことにします。そして、この三者は一般的に「社会的弱者」と要約され、聖書の教えは「弱い者に優しくしなさい」という道徳として受け取られがちです。
この捉え方は、誤りではありませんが、正確でもありません。本稿では、この三者の共通項が「弱さ」ではなく「守る人の不在」であることを、聖書本文と古代近東の背景から確認し、そこから見えてくる神の姿を整理します。
1. 三者の共通項
やもめは夫を、みなしごは父を、寄留者は身を寄せる土地での縁故を欠いています。この欠落が何を意味するかを理解するには、古代イスラエルにおいて、人の権利がどのように守られていたかを押さえる必要があります。
当時、人の生存と権利は、近代社会のように国家によって直接保障されるものではなく、家族と親族の絆によって守られていました。誰かに損害を受ければ、夫が、父が、あるいは親族が、その人に代わって対応しました。また、困窮して土地を手放しても、近い親族がそれを買い戻す仕組みがありました。この買い戻しの役割を担う親族を、あがない主(ゴーエール)と呼びます(レビ記25章25節)。ルツ記のボアズが果たすのも、この役割です。人の権利は、こうした身近な守り手の存在によって支えられていました。
やもめとみなしごは、この守り手を失った者です。夫や父を失い、代わって立つ親族もいないとき、人間の側にはもう守り手が残っていません。また、寄留者は、そもそもこうした親族の絆を持たずに、外から来た者です。つまり三者に共通するのは、性格や能力としての「弱さ」ではなく、権利を侵害されたときに代わりに立ってくれる者がいない、という状況です。
このことを裏づけるのが、申命記のリストにしばしば加わる第四の存在、祭司の一族レビ人です。申命記14章29節、16章11節、26章12節などでは、やもめ、みなしご、寄留者に並んで「レビ人」が加えられます。この際、レビ人は病人でも貧者でもありません。しかし相続地を持たないため(申命記10章9節)、土地を基盤とする保護の枠組みの外に置かれています。もしリストの原理が「弱さ」であれば、レビ人が含まれることは説明できません。しかし、その原理が「守り手の不在」であれば、レビ人が加えられているのは理に適っています。
2. 門という法廷
代わりに立ってくれる者がいないという状況は、具体的には法廷の場面で現れます。古代イスラエルの裁判は、町の門で行われました(ルツ記4章、アモス書5章など)。当時の町は城壁で囲まれ、門はそこに出入りするための開口部でした。人の往来があり、門の内側には広場や腰かけを備えた空間があって、そこが町の公共生活の中心となりました。長老たちがそこに座り、人々が行き交い、証人が自然に集まります。売買の契約も、訴訟の裁定も、この門で行われました。ルツ記4章でボアズがあがないの手続きを行うのも、町の門です。つまり門は、人の往来と証人と長老が揃う、公開の法廷でした。そのため、訴訟の帰結は、自分のために発言してくれる者、証人を集めてくれる者、長老たちに顔の利く者がいるかどうかに大きく左右されます。夫や父を失った者、親族の縁を持たない者には、この門に立ってくれる者がいません。
この人たちが実際に法廷で不正に扱われたことは、預言者の告発からうかがえます。その告発は、繰り返し法廷の言葉で語られました。イザヤ書1章は、正義を求めること、みなしごを正しくさばくこと、やもめを弁護することを求め、同じ章で、みなしごが正しくさばかれず、やもめの訴えが取り上げられない現実を告発します。問題は、同情の欠如としてではなく、司法の欠陥として指摘されています。
例えば、詩篇94篇が、やもめ・寄留者・みなしごの殺害(6節)と、さばきの座そのものが破滅をもたらすものになっているという告発(20節)を、一つの詩の中で結びつけているのも、同じ理解に立っていると言えます。なぜなら、守り手のいない者への暴力は、法廷が機能しないところで起きるからです。
3. 神の称号
やもめとみなしごの保護は、古代近東では正しい王の務めとされていました。聖書はこの理想を共有しますが、その務めを最終的に担う方を、地上の王ではなく神ご自身としています。
詩篇68篇5節では、神についてこのように述べられています。
その聖なるすまいにおられる神は
詩篇68篇5節(口語訳聖書)
みなしごの父、やもめの保護者である。
ここで「保護者」と訳されている原語は「ダーヤーン(דַּיָּן)」といい、本来は裁判官を意味する言葉です。つまり神は、彼らの同情者としてではなく、その訴えを取り上げる裁き手として、述べられています。「みなしごの父」「やもめの保護者」という神の称号は、父のいない者には父として、門に立つ者のいない者には裁き手となられる神のご性質を表しています。
箴言23章10節から11節も同様です。
10古い地境を移してはならない、
箴言23章10-11節(口語訳聖書)
みなしごの畑を侵してはならない。
11彼らのあがない主は強くいらせられ、
あなたに逆らって彼らの訴えを弁護されるからだ。
畑の地境を勝手に動かして他人の土地を奪うことは、当時の典型的な不正の一つでした。とりわけ、抵抗する力のないみなしごの畑が狙われます。ここで警告の根拠とされているのが、「彼らのあがない主は強い」という一句です。「あがない主」(ゴーエール)とは本来、困窮した親族に代わって土地を買い戻し、その訴えを法廷で引き受ける、親族の役割を指す言葉でした(レビ記25章、ルツ記)。みなしごには、その役割を果たす親族がいません。しかし箴言は、彼らのあがない主は強い、と言います。親族というあがない主を持たない者のあがない主に、神ご自身がなられるからです。ここでも、神の称号は、守り手を持たない人の擁護者になっていることを示しています。
そして、出エジプト記22章の契約法は、この構図を最も鋭く語ります。やもめ、みなしごを苦しめてはならない、もし苦しめて彼らがわたしに叫ぶなら、わたしは必ずその叫びを聞く、という警告です。彼らには、叫びを聞いてくださる神のほかに、訴え出る先がありません。人間の法廷に代弁者を持たない彼らの訴えを、神が直接受けとめ、神が直接応じられるのです。
4. 「あなたがたも寄留者だった」
では、なぜ神は、守り手のいない者の守り手となられるのでしょうか。申命記にその理由を見ることができます。
17あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、18みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。19それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。
申命記10章17-19節(口語訳聖書)
神はみなしごとやもめのためにさばきを行い、寄留者を愛される。そして続けて、あなたがたは寄留者を愛しなさい、あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである、と命じられます。
イスラエル自身が、守り手を持たない民でした。エジプトで、彼らのために立つ者は誰もいませんでした。そのとき神が、その嘆きを聞き、契約を覚え、彼らを顧みられました(出エジプト記2章23-25節)。つまり、律法の保護規定は、抽象的な人道主義ではなく、神が守り手となってくださったという民自身の経験に根ざしています。それゆえに、あなたがたが受けたものを隣のものにも示すようにと命じられています。
5. 二つの誤読
ここまでの整理は、よくある二つの誤読を退けます。
第一の誤読は、神が特定の階層をえこひいきしておられる、という理解です。神の関心は、身分や属性への好みではなく、守り手の不在に対応しています。守る者がいる者には、その守る者を通して正義が行われればよい。守る者がいない者のためには、神ご自身が立たれる。これはえこひいきではなく、正義がすべての人に届くためです。
第二の誤読は、弱さそのものに宗教的な価値がある、という理解です。神に顧みられるためには弱い者にならなければならない、という結論は、この三者のリストからは出てきません。リストの原理は、状態としての弱さではなく、構造からの排除だからです。だからこそ律法の応答は、弱くあれという勧めではなく、落ち穂拾いやゴーエールのような、欠落を埋める制度の設計へと向かいます。
6. ルツ記
この論理が物語として展開されるのが、ルツ記です。ナオミとルツは、やもめであり、ルツは寄留者でもあります。夫を失い、土地の権利は不確かで、その日のパンにも事欠く。守り手の欠如を、そのまま生きている二人です。
物語の中で、神の保護は、直接の奇跡としてではなく、二つの制度と一人の従順を通して実現します。落ち穂拾いの律法(レビ記19章9-10節)が、ルツに畑で食糧を得る道を開きます。ゴーエールの制度が、ボアズにナオミの家を助ける法的な手立てを与えます。そして、ボアズの誠実さが、それを実行します。ここで興味深いのは、落ち穂拾いの規定が、レビ記19章、すなわち、隣人を自分自身のように愛することを命じる18節と、同じ章に置かれていることです。守る者のいない者の保護は、律法において、隣人愛の具体的な形の一つとして位置づけられていると言えます。
ルツ記が示しているのは、神が守り手となられるという宣言が、多くの場合、律法に従う人間を通して実現する、ということです。神の保護は、共同体の従順という形を取ってこの世界に現れます。
7. 新約聖書における展開
新約聖書は、このテーマを引き継いでいます。
ルカによる福音書18章の、不正な裁判官のたとえがあります。神を恐れず、人を人とも思わない裁判官の前に、やもめが一人で立っています。彼女には、門に立ってくれる者がいません。イエスはこのたとえを、失望せずに祈り続けることの教えとして語り、まして神が、昼も夜も叫び求める選ばれた者たちのためにさばきを行われないことがあるだろうか、と結ばれます。守る者のいない者の叫びを聞く神という旧約の神理解が、祈りの確かさの根拠として引かれています。
ヤコブの手紙1章27節は、父なる神の御前にきよく汚れのない宗教とは、孤児とやもめとが困っている時に世話をすることだと言います。「父なる神」という呼び方と、孤児・やもめの世話とが並んでいるのは、偶然ではないでしょう。神が父となられる者たちの世話をすることが、神を父と呼ぶ者のしるしとされていると言えます。
そして、ヨハネによる福音書14章18節で、イエスは弟子たちに、わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない、と言われます。十字架を前にした弟子たちは、まさに守り手を失おうとしている者たちでした。その彼らにイエスは、聖霊をもう一人の「助け主」(パラクレートス)として約束されます。パラクレートスは、傍らに呼ばれた者を意味し、法廷で弁護のために立つ者を指し得る言葉です。門に立つ者のいない者の傍らに、神が立たれる。旧約以来のこの神の姿は、聖霊の約束にまで貫かれています。
結び
やもめ、みなしご、寄留者という三者を「弱者」としてひとまとめにするとき、聖書の教えは、強い私たちが弱い彼らに優しくするという、上から目線の道徳に変質しがちです。しかし、聖書の論理は違います。この三者は、守る人がいないという状況にある者です。そして聖書は、その守り手として神ご自身を描きます。父として、裁き手として、あがない主として。その根拠は、イスラエル自身が守る者のいない民であったとき、神が守り手となられたという経験にあります。
だとすれば、今日この三者に対応するのは誰か、という問いは、誰が貧しいか、ではなく、誰の傍らに立つ人がいないか、という形で立てられるべきです。制度の隙間にある人、声を上げても代弁する者のいない人。教会がその傍らに立つとき、教会は聖書の神の性質を映しています。落ち穂拾いの律法が隣人愛の章に置かれていたように、それは特別な英雄的行為ではなく、神の民にとって日々の歩みの一部です。
