日本におけるキリスト教の宣教は、150年を超える歴史を持ちながら、クリスチャンの人口比はおおよそ1%にとどまっています。なぜこの国でキリスト教は広がらなかったのか。これは社会のせい、文化のせい、などと外側に答えを探したくなる問いですが、外ではなく自分たち自身に目を向ける視点で書かれた共同研究があります。それが、『日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか』(いのちのことば社、2012年)という一冊です。

本書は、プロテスタント教会の牧師四名と信徒一名(平均年齢59歳)による「失敗研究」として書かれました。著者たち自身、自らの伝道経験を反省するところから出発したと序章に記されています。研究の手法は、KJ法と呼ばれる質的な分析手法です。これは、現場の声を一つひとつカード化し、共通項でまとめあげていくことで、漠然とした現象の構造を浮かび上がらせる方法です。「日本の宣教はなぜ実を結ばなかったか」という問いに対し、研究者たちがそれぞれ信徒や牧師からリサーチし、集められた声は実に393個にのぼりました。そこから最終的に三つの大きな見出しが抽出されています。

  1. 日本の教会がキリストの心を具体化していない教会であったから
  2. 牧師・指導者(長老・役員・執事たち)が未熟であったから
  3. クリスチャンを含めた日本人が島国的な劣等感の束縛から解放されていないから

第一の理由は、日本の教会が福音を「知的なもの」「観念的なもの」に矮小化し、聖書が示すキリストの教えを社会に対して具体的に実行してこなかったという指摘です。第二の理由は、牧師たちの伝道方法、神学、人格の各面における問題が指摘されています。第三の理由は、欧米キリスト教に対する日本人特有のコンプレックスが、信仰の確信を妨げてきたという分析です。

著者たちは「三つの理由に軽重の順位はつけられない」と慎重に書きつつも、もっとも声の多かったのは第一の理由でした。本書の終章には、次のように記されています。「『日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか』というと、それは日本社会の問題ではなく、私たちクリスチャン自身の信仰の質の問題、未熟さの問題、クリスチャンも持っている劣等感という心の弱さの問題が中心を占めていたのである」。日本社会という環境に原因を求めるのではなく、教会の内側こそ問題の中心であった、というのが本書の結論です。

さて、本書を読み進めると、集められた393の声のなかに「献金」をめぐるものが複数含まれていることに気づきます。たとえば次のような声です。

「十分の一献金が教会の中に貼り出されていて怖い」

「私にとって教会は高コストで、あのようにたくさんの献金は出来ない」

「献金教育が出来ていない」

これらはいずれも、第一の理由(日本の教会の信仰の問題)のなかに含まれている声です。注目すべきは、ここに二つの異なる方向の声が記録されていることです。一方には「献金が重い、教会のコストが高い」という、求道者や信徒の側からの抵抗感を示す声があります。他方には「教会が献金の意味をきちんと教えてこなかった」という、教会の内側からの自省の声があります。同じ「献金」をめぐって、見方を変えれば矛盾するようにも見える二方向の声が、ともに記録されているのです。

それにもかかわらず、本書が最終的にまとめあげた三つの見出しに「献金」という言葉は現れません。集約の過程で、それぞれの声が「教会の信仰の質」や「指導者の未熟さ」といった、より大きな枠組みに吸収されていったのだと思われます。

しかし、宣教が実を結ばない理由として「献金」を独立した論点として扱う価値はないでしょうか。「クリスチャンになりたいけれど、献金がね…」とためらう人がいるとき、その人はおそらく、献金を「会費」のように捉えています。教会に行く以上、毎月のお金を払わなければならない。そのような感覚です。しかし本来、献金は会費ではなく、信仰の応答です。この理解の食い違いが、求道者と教会との間に見えない距離を生んでいる可能性は十分にあります。

ここで一つ確認しておきたいのは、聖書自体が献金のあり方について必ずしも一様ではないということです。使徒パウロはコリント教会からは報酬を受け取らず、自らテントメーカーとして働きながら福音を伝えました(1コリント9:6〜18、2コリント11:7〜9)。一方でピリピ教会からの支援は受けていますし(ピリピ4:15〜16)、エルサレム教会の貧しい兄姉のためには諸教会から熱心に献金を集めています(1コリント16:1〜4、2コリント8〜9章)。つまり、パウロは「献金一般」を退けたのではなく、宣教の現場の必要に応じて、献金や支援のあり方を柔軟に組み直していたと言えます。

ですので、献金の是非については、一概には言えず、その都度柔軟に考える必要があるということです。とりわけパウロとコリント教会との関係には、注目すべき点があります。パウロは、伝道者が信徒からの献金によって生活を支えられることを「当然の権利」として強く主張しています(1コリント9:14)。にもかかわらず、コリント教会に対しては、あえてその権利を放棄しました。背景には、資産家の多いコリント教会から経済的支援を深く受けることで、教会内に山積する諸問題に対して率直に意見できなくなることへの警戒もあったと考えられます。しかし、より本質的な理由は別のところにあります。コリント教会の人々は、自分たちの知恵や権利を互いに競い合うように主張し、それが教会の分裂を生んでいました。パウロは、自らの権利を進んで放棄するという主イエスの生き方を自ら体現することで、コリント教会に「あるべき姿」を示そうとしたのです。

しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。 

コリント人への第一の手紙 9:15(口語訳聖書)

コリント教会から献金を受け取らないこと、それがパウロにとっての誇りでした。

したがって、すべてのケースに無条件に当てはまる方程式はありません。いろいろなケースで、ふさわしいあり方を模索することが必要です。例えば、今日の日本においても、手に職を持ちながら牧師の務めを担う、いわゆる兼業の牧師は少なくありません。教会の規模や事情に応じて、牧師職を専任とするか兼業とするかは異なります。本書の声のなかにも「経済的に自立できないのに牧師の兼職を否定的にとらえる人がいる」という指摘が含まれており、本書自体がこの兼業のあり方に一定の肯定的な視線を向けていることが伺えます。教会の経済的自立や牧師の専任体制を「当然のもの」として固定的に捉える発想そのものが、問い直しの対象になりうるということです。

そして本書には、補足論文として廣瀬薫氏による「日本の福音宣教のゴールを目指して」が収められています。廣瀬氏はこの論考のなかで、日本の宣教の停滞の根底にある「教会中心思考」を批判し、その第一の具体例として「献金」のあり方を取り上げています。「教会中心思考が、神の国への取り組みを妨げている」と廣瀬氏は書いています。それは何を意味するのか。次回は、廣瀬氏の提案の中身を見ていきたいと思います


ぼくどくメモ

献金のあり方を問い直す、と書くと、教会財政の現実をどうするのかという声が必ず返ってきます。これはもっともな反応です。献金は、教会の運営を支えるものであると同時に、本来は神への信仰の応答という尊い行為だからです。

ただ、本書のデータのなかに確かに「献金が重い」「教会は高コスト」という声が残されていたという事実は、無視できないように思います。それが最終的な集約の過程で見えにくくなったとしても、論点としては独立して検討に値するのではないでしょうか。次回紹介する廣瀬氏の提案は、その意味で多くの示唆を与えてくれるはずです。