前回は、日本の宣教の停滞を分析した『日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか』(いのちのことば社)を手がかりに、本書のなかに記録されていた「献金」をめぐる声を取り上げました。本書には、補足論文として廣瀬薫氏による「日本の福音宣教のゴールを目指して」が収められています。今回はこの論考を読み解いていきます。

廣瀬氏が日本の宣教の現状を分析するときに用いる鍵概念は、「教会中心思考」です。日本の教会は信徒を教会の中に集め、教会の中で奉仕させることに重きを置きすぎている。その結果、信徒が家庭・職場・地域社会といった、自分の生きる場で神の国を建てあげる働きに参与する視点が弱くなっている。そのように分析されています。

その「教会中心思考」の最たる現れとして、廣瀬氏が最初に取り上げるのが「献金」のあり方です。廣瀬氏は、プロテスタント教会の多くが「教会毎の独立採算で自給する会計」を採っていることに目を向けます。それを支えているのが信徒からの献金、その土台には聖書の「十分の一献金」の教えがあります。聖書はたしかに、収入の十分の一は神様のものであると教えています。しかし廣瀬氏は問います。その十分の一は、本当に「教会」に献げるべきものなのか。それとも「神様のご用」に献げるべきものなのか。

神様に献げることと教会に献げることはイコールだろうか。

共同研究『日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか』(いのちのことば社、2012年)、69頁

この問いについて改めて考えてみると、献金の見え方が変わってくるように思います。十分の一献金は、神様のご用のために取り分けるものです。教会の働きはたしかにその「神様のご用」の中心の一つですが、それがすべてではありません。信徒には、教会を形成する務めがあると同時に、家庭・職場・地域社会・その他の責任範囲を、神様の御心に沿って形成する務めも担っています。神の国は教会の中だけにあるのではなく、信徒が遣わされていく場すべてに広がっていくのだと廣瀬氏は捉えます。

ここから廣瀬氏は、一つの具体的な実践案を提示します。

まず、収入の十分の一を「神様のご用」のために取り分ける。次に、その十分の一の一部を教会に献げる。たとえば半分を教会に献げると仮定すれば、収入の5%が教会への献金となります。そして残りの半分、つまり収入の5%を、この世を良くするため、神の国の建設のため、神様の御心にかなった実践のために用いる。それはキリスト教団体への寄付であってもよいし、ボランティア活動への参加であってもよい。こうして教会と神の国の働きに半分ずつ献げた合計10%が、聖書が言う「初穂」となる。そのような構想です。

ここで注意深く読みたいのは、廣瀬氏自身が「その割合は自分で決めればよい」と書いていることです。5%+5%という数字は一つの例にすぎず、配分は個々人が祈りつつ決めればよい。重要なのは、献金の意義が「教会への会費」ではなく、「神の国の建設への参与」として捉え直されることです。

廣瀬氏はもう一つ、興味深い指摘をしています。宗教学者の分析を引きつつ、現代の主要な新興宗教は資金が余っており、結果として安い会費で運営されている現実を紹介するのです。これに対して、自給のために献金を集めようとする小規模の教会は、「キリスト教会は今の時代、他の既成宗教や新興宗教に比べてコストが高すぎると見られる恐れがある」と廣瀬氏は述べています。特に会堂建設のための高額な献金は、外部から見たときの「コスト」として映りかねないという指摘です。

論考の終盤、廣瀬氏は教会の刷新のための具体的な提案を五つ挙げています。そのなかで献金に関わるのが第三の提案です。「献金のあり方を見直し、神様のために取り分けたものを、教会と共に地上の神の国建設のために、広く用いるようにする。」そして第四の提案で廣瀬氏はこう記します。「『建物としての教会』に『日曜日』に行かなければクリスチャンにはなれないのだという固定観念が世間に流布しているのは払拭したい」。

ここで、前回の冒頭で立てた問いに戻りましょう。「クリスチャンになりたいけれど、献金がね…」とためらう人がいるとして、その人が献金を「教会への会費」と理解しているなら、廣瀬氏の提案はその誤解そのものを解きほぐすものだと言えます。献金は教会の会費ではない。神様のご用に取り分けるものであり、その用途は教会の枠だけに限らない。この理解の枠組みに立てば、「献金しなければ真のクリスチャンになれない」という命題は、そもそも問いとして成立しなくなります。

ただし、ここから「だから献金しなくてもよい」という結論が直接導かれるわけではない、ということも確認しておくべきでしょう。廣瀬氏が示しているのは、収入の十分の一を神様のご用のために取り分けるという姿勢そのものは聖書の教えに沿うものであり、その用途を教会の枠を超えて広く理解しようという提案だからです。


ぼくどくメモ

廣瀬氏の提案を読んでうなずかされたのは、献金を「教会会計の支え」としてではなく「神の国への参与」として捉え直す視点でした。教会財政の現実問題はもちろんあります。しかしその現実問題を出発点にして献金を語り続けていると、献金は「会費」に近いものに見えてきてしまう。そこに、求道者が献金にためらいを覚える一つの原因があるのではないかと思わされました。

5%+5%という具体的な数字は、廣瀬氏自身があくまで一例として示しているにすぎませんが、考えるきっかけとしては大きな価値があります。教会への献金によって「クリスチャン」であるかどうかが決まる、という偏った発想からは離れて、神様から託されたものをどう用いるかを各自が祈って決める。そういう成熟した献金理解が、これからの日本の教会には必要なのかもしれません。