先日の礼拝でのことです。
礼拝で賛美歌を歌っているとき、会衆席の方からマラカスの音が聞こえてきました。賛美の奏楽に合わせて、ある方がマラカスを鳴らしていたのです。
見慣れない光景でしたが、これはとても重要なことを体現していると思いました。それは、礼拝における「賛美」が、一部の奏楽者だけがするのではなく、会衆の声、そしてあのマラカスの音も加わることで、賛美の歌声、音楽になるという事です。つまり、賛美を「聴いている」のではなく、賛美を「奏でている」ということを、そのマラカスの音は示していたのです。
この出来事は、信仰そのもののあり方に通じているように思います。本記事では、この情景を手がかりに、「参与(participation)」と呼ばれる信仰のかたちについて考えます。
「受ける」だけではない礼拝
礼拝の奏楽について考えてみます。
奏楽は、しばしば「前で奏楽者がするもの」とされています。ピアノやオルガン、ギターを担う奉仕者が前にいて、会衆はそれに合わせて歌う。けれども、少し考えてみれば、会衆が歌うこと自体が、すでに賛美の音楽を形づくっています。歌声がなければ、賛美は成り立ちません。会衆は、前の奏楽を受け取るだけの存在ではなく、自らの声で賛美を奏でているのです。マラカスを振るその方は、このことを、いっそう目に見える形で示していました。声に加えて、手にした楽器でも、賛美を奏でていたのです。
この「奏でる」という事実は、信仰そのものについても示唆を与えます。信仰は、しばしば「聴くもの」「受け取るもの」として捉えられます。説教を聴く。救いを受け取る。キリストの物語を、客席から眺める。聴くことも受け取ることも、信仰にとって欠かせません。しかし、賛美が、聴くだけのものではなく、自分の声で奏でるものであるように、信仰にも、自分自身がその出来事に加わる、という次元があります。マラカスを振るその方のように、また、声を合わせて歌う会衆のように、自分もまた「奏でる人」になる、という次元です。
「キリストにあって」生きるということ
この「奏でる人になる」という信仰のあり方を、聖書学では「参与(participation)」という言葉で説明されます。
使徒パウロの手紙には、「キリストにあって(in Christ)」という表現が繰り返し現れます。パウロにとって、信仰とは、キリストについて正しい知識を持ち、その教えに同意することだけではありませんでした。それは、キリストの「うちに」入り、キリストと共に生きることでした。パウロは、洗礼について語るとき、信仰者は「キリストと共に葬られ」「キリストと共に生きる」と述べています(ローマ人への手紙6章)。信仰者は、キリストの十字架と復活という出来事を、外から眺める観客ではなく、その出来事に自分自身があずかる当事者である、というのです。
これが「参与」です。近年、こうした視点は、聖書学の中で改めて注目されています。マイケル・ゴーマンをはじめとする研究者たちは、パウロの福音の中心に、この「キリストへの参与」があることを論じてきました。救いとは、自分の外側で完結する出来事を受け取ることではなく、キリストの物語のなかに自分自身が組み入れられ、その物語を生きることだ、という理解です。
奏楽になぞらえれば、こうなります。信仰とは、前で誰かが奏でる救いの音楽を、ただ聴くことではありません。自分自身が、その音楽の奏者の一人となることです。キリストが奏でた愛の調べに、自分の音を重ねていく。会衆が自らの声で賛美を奏でるように、またあのマラカスの音が賛美の音色に彩りを加えていたように、一人一人がそのオーケストラに加わり、自分の音を奏でるのです。
なぜ「参与」はしっくりくるのか
参与という視点に立つと、信仰についての多くのことが整理されます。
第一に、信じることと生きることが、切り離されなくなります。「信じてさえいればよい、どう生きるかは別の問題だ」という理解を、私たちはどこかで抱えてきたかもしれません。しかし、信仰がキリストへの参与であるなら、信じることは、すでにキリストの生き方に与る(あずかる)ことです。信じることと生きることは、二つの別々の事柄ではありません。奏でる人にとって、楽譜を理解することと実際に音を出すことが切り離せないように、信じることと生きることは、一つに繋がっています。
第二に、救いが、自分にとっての現実になります。聴くだけにとどまるなら、救いは、自分の外で鳴っている音楽のようなものです。どれほど優れていても、自分はその外側にいます。しかし、自分がその音楽を奏でるとき、救いは、自分が関わる現実になります。「キリストが、誰かのために、どこかで成し遂げた出来事」として聴くのと、「キリストの物語に、自分自身があずかっている」と理解するのとでは、救いの受け取り方が異なります。参与という視点は、救いを、自分の外の出来事から、自分が関わる現実へと移します。
第三に、教会の中での自分の位置づけが変わります。賛美は、前の奏楽者だけが奏でるのではなく、会衆もまた、声によって奏でています。信仰も同じです。参与という視点は、信仰を「牧師や一部の熱心な人がするもの」「自分は受け取るだけ」という位置から、「自分もまた、キリストの物語を生きる一人だ」という位置へと移します。教会は、少数の奏者と、多数の聴き手とに分かれた場所ではありません。すべての人が、それぞれの声で、それぞれの楽器で、共に奏でる場所です。
私たちは、どんな音を鳴らすか
あの礼拝で、マラカスの音は決して大きな音ではありませんでした。前で鳴るピアノの音に比べれば、小さな音です。
しかし、音の大小は問題ではありません。その方は、賛美を聴くだけの人ではなく、賛美を奏でる人でした。前に立っていなくても、自分の場所で、自分の楽器で、賛美に参与していました。そして、声を合わせて歌う会衆もまた、同じように賛美を奏でていました。
「参与」という言葉は、聞き慣れない神学用語かもしれません。しかし、その内実は難しいものではありません。それは、あのマラカスの音のように、また会衆の歌声のように、自分もまた、キリストの物語を奏でる一人であるということです。
そうだとすれば、問われるのは、私たち一人ひとりが、どんな音を鳴らすか、ということです。聴くだけにとどまるのか、それとも、自分の声で、自分の楽器で、奏でる側に加わるのか。前に立つかどうか、音が大きいか小さいかは、問題ではありません。マラカスのように小さな音であっても、自分の場所で、キリストの物語に自分の音を重ねていく。信仰とは、聴くことであると同時に、共に奏でることなのです。
