*シリーズ「ゴーマンと参与の神学」の第5回です。これまでの参与論・クルシフォーミティ・テオーシスの議論を前提にしていますので、よろしければぜひそちらもお読みください。
これまで4回にわたって、マイケル・ゴーマンの神学をたどってきました。「キリストにあって」という参与の現実 (第1回・参与論入門と人物紹介)、十字架の形に生きるクルシフォーミティ(第2回)、共十字架としての義認(第3回)、そして神の似姿に造り変えられるテオーシス(第4回)です。
これらはいずれも、信仰者一人ひとりが「キリストの物語に参与する」という、内面的で個人的な事柄のように見えるかもしれません。しかしゴーマンは、ここで大きく視野を広げます。彼の三部作の最後を飾る『Becoming the Gospel: Paul, Participation, and Mission(福音そのものになる――パウロ、参与、宣教)』(2015年)において、参与の神学は、教会の宣教論へと開かれていきます。
宣教を「参与」として捉え直す
しばしば「宣教(mission)」は、「伝道(evangelism)」とほぼ重ねて理解されてきました。すなわち、教会が福音というメッセージを持っていて、それをまだ知らない人々に語り伝え、信仰に導くという働きです。福音を言葉で語り伝えることは、確かに教会の大切な使命です。ゴーマン自身、救いが世界に届けられる方式は「言葉と行いの両方によって」この良き知らせを宣べ伝えることだと述べ、言葉による伝達を否定してはいません。
しかしゴーマンは、宣教を伝道だけに縮小することに対して慎重です。というのも、彼にとって宣教とは、福音を語り伝えることを含みつつも、それよりもさらに広く深いものだからです。彼は、パウロの意図を、ギリシア語の語呂合わせを用いて鮮やかに整理します。
In other words, although Paul did not believe that all participants in Christ, all members of the ekklēsia, should become euangelistai (evangelists in the sense of traveling missionaries or public preachers), he firmly believed that they should all become the euangelion (the evangel, the gospel).
Michael J. Gorman, Becoming the Gospel: Paul, Participation, and Mission, ed. John R. Franke, The Gospel and Our Culture Series (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2015), 43.
言いかえれば、パウロは、キリストにあるすべての者、すなわち教会のすべてのメンバーが、ユーアンゲリスタイ(巡回宣教師や公の説教者という意味での伝道者)になるべきだとは考えていなかった。しかし彼は、彼らすべてがユーアンゲリオン(福音、すなわち福音そのもの)になるべきだと、固く信じていたのである。
すべての信仰者が「伝道者」になるわけではない。しかし、すべての信仰者が「福音そのもの」になる。
ここでパウロが共同体に求めているのは、福音というメッセージを正しく信じ、語ることだけではありません。それを超えて、共同体そのものが福音の生きた体現者となること、すなわち、キリストの十字架と復活の物語を、共同体の生きざまそのものによって示す存在になることです。そしてゴーマンによれば、福音そのものになった共同体は、まさにそのことのゆえに、福音を語る機会をも与えられていきます。「なる」ことと「語る(伝道)」ことは、対立するのではなく、前者から後者が生まれ出る関係にあります。
「福音を信じること」と「福音になること」
ゴーマンのこの主張は、「信じる」という言葉の理解そのものにも関わっています。
第1回の参与論入門で確認したように、パウロにとって「キリストを信じる」とは、ある命題に同意することや心理的に信頼を寄せることにとどまりません。それは、罪と死の支配する領域から、キリストの支配する新しい領域へと移行する、参与的な出来事でした。ゴーマンも同じ点を指摘します。福音を信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者に起こることを突きつめて考えるなら、「信じる」という言葉の意味そのものが、同意や信頼という観念から、参与という観念へと、暗黙のうちに移行している、というのです。
そうだとすれば、宣教の理解が「(福音を)伝える」から「(福音に)なる」へと深まっていくのも、自然な流れということになります。「信じる」がすでに「キリストに参与する」ことであるなら、その信仰に生きる共同体は、おのずとキリストの物語を体現する共同体となります。「福音を信じること」と「福音そのものになること」は地続きなのです。
ゴーマンは、この共同体の宣教を「missio Dei(ミッシオ・デイ、神の宣教)」という概念と結びつけて語ります。「神の宣教」とは、宣教の主体はそもそも教会ではなく神ご自身であり、世界を救おうとする神の働きが先にあって、教会はその神の宣教に「参与する」者として招かれている、という考え方です。現代の宣教学の主流をなす視点です。
ゴーマンによれば、教会が福音に「なる」ことと神の宣教に「参与する」ことは、同じひとつの事柄の表と裏です。彼は次のように述べています。
Both Paul and his communities are called to participate in the saving mission of God, indeed to embody it.
Michael J. Gorman, Becoming the Gospel: Paul, Participation, and Mission, 41.
パウロも、彼の諸共同体も、神の救いの宣教に参与するよう、さらにはそれを体現するよう召されている。
ここでは「参与する(participate)」と「体現する(embody)」が、ほとんど同義のように並べられています。神の宣教にあずかる(与る)ことは、それを自分たちの身をもって生きることにほかなりません。福音を「持つ」のではなく「なる」とは、このことを指しています。
参与から宣教へ:ゴーマンの9つの結論
ここで重要なのは、この宣教論が、これまで述べてきた参与の神学から自然に生まれてくるという点です。「福音になる」という主張は、ゴーマンが思いつきで付け加えた実践論ではありません。それは、キリストへの参与という、彼の神学の根幹からの帰結です。
ゴーマンはパウロにおける参与についての議論を9つの結論にまとめています。この9項目は、本シリーズがこれまでたどってきた道のりの要約にもなっています。順を追って見ていきます(P.34-45参照)。
第一に、信仰による義認とキリストへのバプテスマは、それ自体が参与的な「入信」の出来事である、とゴーマンは述べます。これは第3回で扱った、共十字架としての義認に対応します。義認は、キリストの物語に与ることの始まりなのです。
第二に、福音を信じてバプテスマを受けた者は、キリストにあって、またキリストのからだに組み入れられた他の者たちと共に、参与のいのちへと入っていきます。参与は、孤立した個人の経験ではなく、共同体的な現実です。
第三に、キリスト者の存在は、個人としても共同体としても、キリストとの親密な交わりであり、しかもそれは、他のいかなるものをも主とせず、キリストひとりに向けられた交わりです。信仰者はキリストと御霊のうちに生き、キリストと御霊が信仰者のうちに、また信仰者の間に生きておられます。
第四に、「キリストにあること(in Christ)」は、キリストの似姿へと絶えず変えられ続けることです。ゴーマンはこれを、キリストを衣のように身にまとうイメージで表現します。これは第4回で扱ったテオーシス、すなわち神の似姿への形成に対応します。
第五に、この参与は、とりわけキリストの十字架への参与によって特徴づけられます。それは、福音の忠実な体現としての自己犠牲的な愛として現れ、そしてその忠実な証しのゆえに、苦難を引き受ける可能性をも含みます。これは第2回で扱ったクルシフォーミティ、すなわち十字架の形に生きることに対応します。
第六に、キリストにあることは、神の宣教の一部となることです。しかもそれは、神の宣教の受益者となることであり、同時に参与者となることでもあります。ゴーマンは、この受益と参与は不可分であり、同義ですらある、と述べます。救いを受け取ることと救いの働きにあずかることは切り離せないのです。
第七に、キリストにある刷新は、それ自体が目的ではありません。それは、神の義となることによって新しい創造に参与し、世界において神の御心を行うために神に自らをささげる民を形づくる、という、より大きな神の計画の一部です。
ここまでの七つの結論について、ゴーマンは、それほど論争的なものではない、と述べます。しかし彼は、続く二つの結論が、決定的であり、かつ議論を呼ぶ可能性がある、と前置きして、さらに踏み込みます。
第八に、パウロやその同労者のような福音宣教に立てられた働き人(教役者)には、確かに固有の賜物と役割があります。しかし、彼らの生はあくまで模範であってすべての信仰者がそれに倣うべきものです。それゆえ、キリストに参与するすべての者が、それぞれの場で、同じように愛に満ちた忠実な証しを生きることが期待されている、とゴーマンは論じます。すべての信仰者が証人であり、ある意味で、すべての信仰者が使徒的なのです。すべての者が新しい創造に参与し、すべての者が黙示的な戦いに参与する。たとえそれが苦難を伴うとしても、福音への忠実な証しにあずかることによって、人はキリストにあずかります。
このように少し踏み込んだ論理の帰結として、ゴーマンは簡潔にこう述べます。
The church, for Paul, is inherently missional.
パウロにとって、教会は本質的に宣教的である。
Michael J. Gorman, Becoming the Gospel: Paul, Participation, and Mission, 35.
証人として生きることは、一部の専門家(教役者)だけの務めではなく、キリストに参与するすべての者の生のかたちです。それゆえ教会は、その活動の一部門としてではなく、その存在そのものにおいて宣教的なのです。
そして、第九の結論は、第八をさらに展開します。キリストに参与することは、信仰者だけの閉じた円のなかに存在することではなく、世界において証しすることだ、とゴーマンは述べます。彼はこの点が、いくつかの仕方で含意されている、と指摘します。たとえば、キリストへの参与が、他の神々を交えない、キリストのみに向けられたものであることが求められること。それは偶像礼拝を、そして偶像礼拝が行われる社会的状況を、捨て去ることを意味します。また、パウロの手紙の大半に見られる、共同体が福音のゆえに苦難を受けるという予期は、ある種の忠実な公の証しがあったこと、そしてそれが迫害を生んだことを前提にしています。ゴーマンの印象的な表現を借りれば、「参与」とは、信仰者だけで身を寄せ合う「聖なる群れ(holy huddle)」のことではありません。
ゴーマンは、ここでモルナ・フッカーの言葉を引きます。パウロにとって、聖さ、すなわち神に似ることは、もはや他者からの「分離」を意味しなくなり、「三角形の(triangular)」ものとなった、というのです。神を愛し、隣人を愛するという、神と自分と隣人を結ぶ三角形です。聖さとは、世から身を引くことではなく、神への愛と隣人への愛のうちに生きることなのです。
これら九つの結論を、ゴーマンは一文にまとめてこう述べます。
To participate in Christ is both to benefit from God’s mission of liberation and reconciliation and to bear witness to this divine mission—thus furthering it—by becoming a faithful embodiment of it.
Michael J. Gorman, Becoming the Gospel: Paul, Participation, and Mission, 36.
キリストに参与することは、神の解放と和解の宣教の受益者となると同時に、その宣教の忠実な体現者となることによって、それを証しし、こうして推し進めることである。)
ここに、これまで見てきたすべてが収斂します。受益と参与、参与と証し、証しと体現。それらは別々の事柄ではなく、ひとつのことの諸側面です。福音に与った者は、同じように、キリストに与る者として、福音を証しし、福音を体現する者となります。福音を「持つ」のではなく「なる」とは、この一連の事柄全体を指しているのです。
ぼくどくメモ
日本において、キリスト教会は小さな群れです。人数も、社会的な影響力も、決して大きくはありません。だからこそ教会は、しばしば宣教を「どうしたらより多くの人に効果的に福音を伝えられるか」という、方法と戦略の問題として考えてしまいがちです。
しかし、ゴーマンの「福音そのものになる(Becoming the Gospel)」という言葉は、その問いの立て方そのものを問い直すものであるように思います。問われているのは、まず「何を語るか」「どう伝えるか」ではなく、「自分たちが何になっているか」です。教会という共同体は、キリストの自己を与える物語を、その生きざまにおいて体現しているのか。互いに仕え合い、弱い者を助け、世のために自らを差し出す群れになっているのか。非常に大切な問いではないでしょうか。
ところで、私たちは普段、海外に派遣される働き人を「宣教師」と呼び、国内で福音を語る働き人を「伝道師」と呼んだりします。ですが、実態としては、どちらも同じ神の働きに仕えています。なぜこのような違いが出てきたのか、気になるところです。クリストファー・ライトは、その大著『神の宣教』のなかで、宣教(mission)を、伝道という言葉による働きに縮小せず、神ご自身の救いの目的に根ざした、はるかに広い概念として描き出しています。ですので、厳密には、違いがあるのだと思います。
しかし、ゴーマンは、それらを包括するような視点を持っています。彼によれば、参与という観点を徹底すれば、「宣教的」と「牧会的」、「宣教的」と「伝道的」といった区別さえ、最終的には溶け去っていきます。すべての働きの焦点が、他者の究極の善、すなわち神の救いへとあずからせることにあるからです。この主張に、私は深く共感します。
これは、効率や規模とは別の次元の問いです。たとえ小さな群れであっても、その交わりのかたちそのものが福音の証しとなりうる。ゴーマンの議論は、そのことを指し示しています。
そして、それは人間の頑張りや戦略によって作り出すものではありません。これまで見てきたとおり、それは聖霊が信仰者のうちに十字架の形を刻み込む、その御業の実です。教会はただ、神の宣教に招き入れられ、その物語に与ることを許されています。福音を「持つ」教会から、福音に「なる」教会へ。私たち日本の教会は、その招きにどのように応えるでしょうか。
