*シリーズ「ゴーマンと参与の神学」の第3回です。第1回「マイケル・ゴーマンとは誰か」、第2回「クルシフォーミティとは何か」もあわせてお読みください。
プロテスタント教会で信仰生活を送る者にとって、「義認(義と認められること)」は、福音の心臓部にある言葉です。宗教改革以来、プロテスタント教会は「人は行いによらず、ただ信仰によって義と認められる」という教えを、福音の要として大切にしてきた背景があります。
ところが、マイケル・ゴーマンは、この義認という言葉を、これまでとは少し違った角度から読み解こうとします。彼によれば、パウロにとって義認とは、「キリストと共に十字架につけられること(共十字架、co-crucifixion)」にほかなりません。本記事では、シリーズの前2回で扱ってきた「参与」「クルシフォーミティ」という主題が、ここで「義認」という古くて新しいテーマに結びついていく様子を見ていきましょう。
伝統的な義認理解:法廷のイメージ
まず、私たちがよく知っている伝統的な義認の理解を確認しておきましょう。
宗教改革以来のプロテスタント神学において、義認はしばしば「法廷的(forensic)」なイメージで語られてきました。罪ある人間が神の法廷に立たされている。本来であれば有罪の判決を受けるべきところを、キリストの十字架のゆえに、神は信仰者を「無罪」「義しい(正しい)」と宣言してくださる。この「宣言」こそが義認である、という理解です。
ここで大切なのは、義認が「宣言」であって、人間の内側が実際に変えられること(これは通常「聖化」と呼ばれます)とは区別される、という点です。義認はあくまで神が外から与えてくださる法的な身分の変化であり、その後に続く聖化のプロセスとは、神学的に分けて考えられてきました。
この理解には長い伝統があり、決して間違いではありません。ゴーマン自身も、この法廷的な側面を否定しているわけではないことを、最初に確認しておきたいと思います。
ゴーマンの問い:義認と参与は別のものか
しかしゴーマンは、ここである問いを投げかけます。パウロにとって、「信仰による義認」と「キリストとの参与」は、本当に別々のことだったのだろうか、というわけです。
これは、前回までに見てきたサンダース以来の問いとつながっています。パウロは確かに「信仰によって義と認められる」と語ります。けれども同じパウロが、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)とも語るのです。この二つは、別の話なのでしょうか。それとも、同じひとつの出来事を、別の角度から語ったものなのでしょうか。
ゴーマンの答えは明快です。パウロには2つの救済モデル(法廷的なものと参与的なもの)があるのではなく、ひとつしかない、と彼は主張します。そのひとつのモデルこそ、「共十字架による義認(justification by co-crucifixion)」です。ゴーマンはこれを、頭文字をとってJCCと略称しています。
ガラテヤ書2章20節を読む
ゴーマンがこの主張の中心に据えるのは、ガラテヤ人への手紙2章19-20節です。これは、多くの信仰者が暗唱するほど親しんできた、美しい聖句です。
わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
ガラテヤ人への手紙2章19-20節(口語訳聖書)
ゴーマンは、この聖句の構造に注目します。彼の読み方によれば、パウロはここで二つの文を平行させて並べています。一方では「神に生きるために、律法によって律法に死んだ」と語り、他方では「キリストと共に十字架につけられた。もはや生きているのはわたしではなくキリスト」と語ります。そしてこの二つは、同じ事態を言い換えたものだというのです。
注目すべきは、この聖句が義認を論じる文脈(ガラテヤ書2章16節以下)の真ん中に置かれていることです。パウロは「人は律法の行いによってではなく、信仰によって義とされる」(2:16)と述べた、まさにその直後に、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」と語ります。ゴーマンは、これは偶然ではないと言います。パウロにとって、「信仰によって義とされる」ことと「キリストと共に十字架につけられる」ことは、同じひとつの現実なのです。
ですから、ゴーマンによれば、パウロが言う「信仰による義認」とは、つきつめれば「共十字架による義認」のことなのです。信仰とは、キリストと共に死ぬ経験であり、その死を通して、新しいいのち、すなわち「キリストがわたしのうちに生きる」という復活のいのちへと至る。これが、ゴーマンの読み解くパウロの義認です。
義認の新しい定義
このような読解を経て、ゴーマンは義認を次のように定義し直します。本人の言葉を引用します。
Justification is the establishment or restoration of right covenantal relations—fidelity to God and love for neighbor—by means of God’s grace in Christ’s death and our Spirit-enabled co-crucifixion with him. Justification therefore means co-resurrection with Christ to new life within the people of God and the certain hope of acquittal/vindication, and thus resurrection to eternal life, on the day of judgment.
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009), 85–86.
義認とは、正しい契約関係の確立または回復であり、それは神への忠実さと隣人への愛として表される。それは、キリストの死における神の恵みと、御霊によって可能とされる、私たちのキリストとの共十字架によって実現する。したがって義認とは、神の民のうちにある新しいいのちへとキリストと共に復活すること、また審きの日における無罪宣告と義認の確かな希望、すなわち永遠のいのちへの復活を意味する。
この定義には、伝統的な法廷的義認論の要素(「審きの日における無罪宣告」)も、しっかりと含まれていることに注目してください。ゴーマンは法廷的なイメージを捨てているのではありません。そうではなく、それを参与というより大きな枠組みのなかに位置づけ直しているのです。
義認と聖化は切り離せない
ゴーマンのこの提案がもたらす最も大きな帰結は、義認と聖化の関係についてのものです。
先に見たように、伝統的なプロテスタント神学では、義認(神が義と宣言すること)と聖化(信仰者が実際に造り変えられること)は、明確に区別されてきました。しかし、ゴーマンの読み方では、この二つを分けることはできません。なぜなら、信仰者をキリストと共に十字架につけ、新しいいのちへと復活させる聖霊の働きは、義認の瞬間も、その後の生涯にわたる歩みも、同じひとつの働きだからです。
ゴーマン自身、こう述べています。義認と聖化のあいだに神学的な裂け目を設けることは不可能である、なぜなら同じ御霊が、信仰者における最初の共十字架も、継続的な共十字架も、その両方を実現するのだから、と。つまり、義と認められることと、聖なる者へと造り変えられていくことは、「キリストと共に十字架につけられ、共に復活する」という一つの参与的な現実の二つの側面にすぎないのです。
ここで、前回扱った「クルシフォーミティ」という主題が、再び姿を現します。義認によって始まり、生涯にわたって続いていく「キリストと共に十字架につけられる」歩み。それはまさに、十字架の形に造り変えられていくクルシフォーミティの歩みにほかなりません。そしてゴーマンは、このクルシフォーミティが究極的には「テオーシス(神化)」であると主張します。これについては、次回の記事で詳しく扱う予定です。
ぼくどくメモ
「義認とは共十字架である」というゴーマンの主張は新鮮なものではないでしょうか。特に、伝統的な神学においては、そう感じるのではないかと思います。それは時に、警戒感を生み出すこともあるかもしれません。「信仰のみによる義認」というプロテスタントの大切な遺産が、揺るがされるのではないかという警戒です。
しかし、ガラテヤ書2章20節をゴーマン流に読み直したとき、私はむしろ筋が通っていると感じました。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。この箇所は、ある時から私の心を打ったみことばです。ですが、この言葉を「義認の聖句」として読んだことはありませんでした。
ゴーマンは、義認を私たちの外側で完結する法的な手続きとしてだけでなく、私たちの内側で起こる、キリストとの命がけの結びつきとして語ります。義と認められるとは、ただ無罪の判決を受け取ることではなく、キリストと共に死に、キリストと共に生き始めることなのだ、と言うのです。
それは、私の頑張りによる「自己義認」とは正反対のものです。ゴーマンが繰り返し強調するように、この共十字架は、御霊によって可能とされる神の恵みの御業です。私たちはただ、その死と復活のうちに、招き入れられるのです。義認とは、神が私を「正しい」と宣言してくださる出来事であり、同時に、その宣言が私のうちで生き始める出来事でもある。そのことに、私はむしろ福音の豊かさを感じます。
