「マイケル・ゴーマン」と聞いて、ピンとくる方は日本ではまだそれほど多くないかもしれません。それというのも、英語圏のパウロ研究では、もはや無視できないほどの存在感を持つこの神学者の主著は、現在のところ、ほとんど邦訳されていないからです。
最近出版された本の中では、ティモシー・G・ゴンビス『力は弱さのうちに 牧会者パウロ 十字架の姿を生きる』(いのちのことば社)の「まえがき」をゴーマンが執筆しています。
おそらく、日本で初めて広く紹介されたのは、『日本語版インタープリテイション89号』(原著は2010年出版)におけるマイケル・J・ゴアマン『十字架の形をした神の下に—パウロの物語救済論における神性放棄(ケノーシス)、義認、神性』の書評ではないかと思います。ここではゴーマンではなく「ゴアマン」と訳されています。ちなみに、ゴーマンと並んで取り上げられているのが、N.T.ライト『義認—神の計画とパウロのヴィジョン』(Justification: God’s Plan and Paul’s Vision)とダグラス・A・キャンベル『神の解放—パウロの義認を黙示的に読み直す』(The Deliverance of God: An apocalyptic Rereading of Justification in Paul)です。
このように日本ではそこまで知られていない神学者ですが、ここ20年あまりの間に英語圏で書かれたパウロ研究の重要な書物を読むと、ゴーマンの名前と、彼が造語として用いる「cruciformity(十字架の形)」「missional theosis(宣教論的テオーシス)」といった概念がよく使われています。N.T.ライト、リチャード・ヘイズ、ダグラス・キャンベルといった現代パウロ研究の重要人物たちは、賛否はそれぞれにあるとしても、ゴーマンと対話せずにパウロ神学を論じることが難しくなっているのです。
本記事では、これから始まるシリーズ「ゴーマンと参与の神学」の入口として、マイケル・ゴーマンとはどのような神学者なのか、その神学の三つの柱とは何かを、入門的にご紹介します。
エキュメニカルな現場に立つメソジスト派の聖書学者
マイケル・ジョセフ・ゴーマンは1955年生まれの新約聖書学者です。プリンストン神学校で博士号を取得し、現在はボルティモアの聖マリア修道院にあるエキュメニカル神学院で教えています。
ここで興味深いのは、彼の教会的背景と勤務先の関係です。ゴーマン自身はメソジスト派ですが、長年勤めているのはカトリック系の神学校です。彼自身、『Inhabiting the Cruciform God』の中でこう述べています。
As a Methodist working in a Catholic seminary and its Ecumenical Institute of Theology among Catholic, Protestant, and Orthodox Christians, this gives me hope.
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009), p.8.(脚注22)
カトリックの神学校とそのエキュメニカル神学研究所で、カトリック・プロテスタント・正教会のキリスト者たちのなかで働くメソジスト派として、このことは私に希望を与えてくれます。
この一文には、ゴーマンの神学的姿勢が凝縮されているように思われます。彼は宗教改革以来のプロテスタント・カトリック・正教会の分断を、現代において再び問い直そうとする神学者です。そして、その問い直しの鍵になるのが、これからご紹介する「参与(participation)」というテーマなのです。
ゴーマンの神学の出発点:三部作について
ゴーマンのパウロ研究は、自身が「三部作(trilogy)」と呼ぶ三冊の主著によって展開されてきました。
第一作は2001年の『Cruciformity: Paul’s Narrative Spirituality of the Cross(クルシフォーミティ:パウロの十字架の物語的霊性)』。ここでゴーマンは「cruciformity(クルシフォーミティ、十字架の形)」という独自の概念を提案します。信仰者の生は、単にキリストを「真似る(imitation)」のではなく、十字架の形そのものを帯びていくのだ、というのが基本的な主張です。
第二作は2009年の『Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology(十字架の形をした神の下に—パウロの物語救済論における神性放棄-ケノーシス-、義認、神性)』。ここで彼は、第一作の「クルシフォーミティ」を、東方正教会の伝統概念である「テオーシス(theosis、神化)」と結びつけました。この大胆な接続が、ゴーマンの名前を英語圏のパウロ研究界に決定的な影響を与えたことと無縁ではないでしょう。
第三作が2015年の『Becoming the Gospel: Paul, Participation, and Mission(福音になる:パウロ、参与、宣教)』です。ここで彼は、参与とテオーシスというテーマを、教会の宣教論へと展開しました。教会が福音を「持つ」のではなく、福音そのものに「なる」というこの命題は、現代の宣教論に大きな衝撃を与えています。
これら三冊は、それぞれ独立して読むこともできますが、本人によれば、順番に読むことで彼の神学の発展を追体験できるように設計されています。
ゴーマン神学の三つの柱
ゴーマンの神学を理解する鍵は、次の三つの言葉に集約されると言ってよいでしょう。
第一に、Cruciformity(十字架の形)。これはゴーマンの造語で、信仰者の生が「キリストの十字架の形をとっていく」ことを表す言葉です。彼は、パウロの霊性をピリピ書2章6–11節の「キリスト賛歌」を中核とする「物語的霊性」として捉えました。キリストが神のかたちであるにもかかわらず、自らを低くし、十字架にまで従順となったその生涯の形に、信仰者の生も少しずつ似ていくこと。それが「cruciformity」です。
先述のゴーマンがまえがきを描いているゴンビスの著作では、このクルーシフォーミティが多用されています。そして、そのことについて、訳者の方も触れておられるので、そこから少し引用します。
本書には、クルシフォーミティという見慣れず、また耳慣れない言葉が随所に出てきます。これは本書のまえがきを著したマイケル・J・ゴーマンが2000年代初めに提唱した、彼の造語です。
――立木信恵「訳者あとがき」、ティモシー・G・ゴンビス『力は弱さのうちに――牧会者パウロ 十字架の姿を生きる』(立木信恵訳、後藤敏夫監訳、いのちのことば社、2025年)273–274頁より。
Cruciformity は crusiform(十字架の、十字架の形をした)と conformity(同じ形・性質にすること、ある基準や形に合わせること、一致、同調ほか)の二語からなり、どちらもそれ自体はニュートラルな言葉ですが、ゴーマンはこの二つを掛け合わせることによって特別な意味を持たせました。
…これを提唱する方達からは「理解が浅い」とお叱りを受けそうですが、クルシフォーミティとは、キリスト者や教会のうちに聖霊によって十字架の姿が形づくられていく神の働きかけであり、その神の恵みに信者や教会が応答して自分自身を十字架の姿に合わせていく能動的な生き方、と言えるかもしれません。その十字架の姿とは、ご自分を低くしてしもべの身分となり、ご自分をささげ尽くして恥ずべき十字架の死をも引き受けられた、神に信頼して従い通されたイエスの生き方です。
第二に、Theosis(神化)。これは、東方正教会の伝統において「人間が神に似た者となる」ことを意味する古くからの神学概念です。ただしゴーマンは、これを慎重に定義し直しました。彼の言葉によれば、テオーシスは「人間が神のような者になる(humans become like God)」ことを意味し、決して「小さな神々(little gods)」になることではありません。
ゴーマンの最も大胆な主張は、この二つを結びつけたところにあります。彼によれば、「クルシフォーミティは、実はテオフォーミティ(神の形性)、すなわちテオーシスである」。十字架の形に生きることと、神の似姿に造り変えられることは、別のことではなく、同じひとつの現実の二つの側面だということです。
第三に、Mission(宣教)。ゴーマンにとって、参与とテオーシスは個人の内面の出来事にとどまりません。神に参与する共同体は、必然的に宣教的な共同体になります。彼の有名な言い回しを借りるなら、教会は福音を「告げる」のではなく、福音そのもの「になる(becoming the gospel)」のです。
なぜ今ゴーマンを紹介するのか
日本のプロテスタント教会にとって、ゴーマンの神学はいくつもの問いかけを投げかけてきます。
たとえば、伝統的なプロテスタント神学では「義認」と「聖化」は明確に区別されてきました。ゴーマンはこの区別を完全に否定するわけではありませんが、両者を「参与」という一つの土台のうえに統合しようとします。彼は「義認とは、キリストの復活のいのちに参与することであり、それはキリストとの共十字架(co-crucifixion)によって実現される」と主張します。これは伝統的な法廷的義認論を補い直す、参与論的義認論の試みです。
また「テオーシス」という東方教会的な用語をプロテスタント・パウロ研究に持ち込む彼の姿勢は、宗教改革以来のプロテスタンティズムに大きな問い直しを迫ります。「人間が神に似た者になる」という言葉に、私たちは違和感を覚えるかもしれません。しかし、それはペテロの手紙第二1章4節の「神の性質にあずかる者となる」という言葉に、すでに芽として宿っていたものではなかったかと、ゴーマンは問いかけます。
そして、参与論的に読み直されたパウロ神学は、宣教を「教会の活動の一部門」ではなく、「教会そのものの存在様式」として捉え直す可能性を開きます。これは、日本のように少数派の教会が宣教の使命を考えるうえで、深い示唆を与える視点であるように思われます。
これからのシリーズについて
本記事を入口として、これから「ゴーマンと参与の神学」と題するシリーズを進めていく予定です。次回以降、彼の三部作それぞれを順に取り上げ、「クルシフォーミティ」「参与的義認」「テオーシス」「宣教論的テオーシス」といった主題を、ひとつずつ紹介を兼ねて見ていく予定です。
なお本シリーズは、すでに公開している「参与論とは何か(参与論入門)」の記事の延長に位置付けられます。また、「救いとは何か」シリーズの義認・聖化の記事とも対話関係にあります。ゴーマンの神学は、日本のキリスト教会にとっても、新たな視点で聖書を理解する助けになると思います。
ぼくどくメモ
マイケル・ゴーマンの本と出会った時、どこかしっくりくるものがあったことを覚えています。それまでの理解では、どこか抜けていたようなものを埋めてくれる、そのような感触がありました。
義認とは何か、聖化とは何か、罪とは何か。そのような神学的なテーマを「教理の体系」として読んでいたところがありましたが、ゴーマンは、パウロを「物語を生きる人」として読んでいます。キリストの十字架と復活という物語のなかに、自分自身も組み入れられている。その物語の形に、自分の生も少しずつ似ていく…
「福音そのものになる」というゴーマンの言葉は、私自身の心のうちにも響いています。私たちは、福音を「持っている」のではなく、福音に「なっていく」者として召されている。それは重い召しかもしれませんが、同時にこの上なく豊かな招きでもあります。
これから何回かに分けて、ゴーマンの神学をご一緒に辿っていきたいと思います。日本ではまだあまり知られていない神学者ですが、その思想は、私たちの信仰の歩みに新しい光を差し込んでくれるはずです。
参照文献
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI: William B. Eerdmans, 2009).
Michael J. Gorman, Becoming the Gospel: Paul, Participation, and Mission (Grand Rapids, MI: William B. Eerdmans, 2015).
