これまで、罪・贖罪・義認・聖化と見てきましたが、今回で「救いとは何か」シリーズは最終回になります。
第5回で扱った聖化は、信仰者がキリストの形に似せられていく「進行中」のプロセスでした。その過程が最終的に何へと至るのか。パウロが描く救いの究極の到達点とは何なのか。
それが、栄化(glorification)です。プロテスタント神学で「救いの順序(ordo salutis)」と呼ばれる救いの全体像の、最後の項目にあたります。
今回もConstantine R. Campbellの議論を主要な手がかりとします。なかでも Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study(Zondervan Academic, 2020)に多くを負いながら議論を進めていきます。なお、栄光については終末論シリーズの第9回・第12回でも扱いました。
栄化とは何か
「栄化」はギリシア語の動詞ドクサゾー(δοξάζω、「栄光を与える」)から来る神学用語です。動詞のもとになる名詞ドクサ(δόξα、「栄光」)については、終末論シリーズの第9回で詳しく扱いました。簡単に振り返れば、ドクサとは神ご自身の輝かしい自己顕現を指す語であり、来るべき時代を特徴づける究極の現実です。
栄化とは、信仰者がキリストの栄光に与かり、キリストとともに栄光に輝く者へと変えられることです。終末論シリーズで繰り返し触れたように、これは独立した出来事ではなく、キリストを中心とした出来事です。キリストご自身の栄光が信仰者にも分け与えられ、ともに分かち合われる現実、それが栄化です。
もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
ローマ人への手紙8章17節(口語訳聖書)
ローマ8:29-30が描く救いの順序
栄化が「救いの順序」の最終項目だと言えるのは、パウロ自身がこの順序を一つの流れとして描いているからです。ローマ8章29-30節でこのように言われています。
神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。
ローマ人への手紙8章29-30節(口語訳聖書)
パウロは、神が信仰者に施す救いの業を、五つの動詞でひとつながりに描いています。予知(あらかじめ知る、προέγνω)、予定(あらかじめ定める、προώρισεν)、召命(召す、ἐκάλεσεν)、義認(義とする、ἐδικαίωσεν)、そして栄化(栄光を与える、ἐδόξασεν)。
ここで、Campbellは興味深い点を指摘しています。最後の「栄光を与えた」(ἐδόξασεν)はギリシア語のアオリスト形、つまり過去時制で記されています。にもかかわらず、これは明らかに未来の出来事を指しています。なぜパウロは未来のことを過去時制で書いたのか。Campbellによれば、それは栄化が、神の側ですでに確実に決まっている現実だからです。神の救いの業は予知・予定の時点で始まり、栄化において完成する。その全体は、神の視点からは一つの確定した働きとして見えているのです。
このローマ8章の流れには、もう一つの構造があります。Campbellによれば、それは単なる時間的な順序ではなく、神と人との関係がしだいに親密になっていく過程でもあるのです。予知の段階では、神は人を知っているけれども、人はまだ神を知らない。召命によって関係が結ばれ、義認によって罪の障壁が取り除かれ、そして栄化において、信仰者はキリストの臨在のうちに迎え入れられるのです。
栄化とは「キリストの像に似せられること」
ローマ8章29節はまた、栄化の中身についても重要なことを伝えています。つまり、神は信仰者を「御子のかたちに似たもの」(συμμόρφους τῆς εἰκόνος τοῦ υἱοῦ αὐτοῦ)としようとあらかじめ定められたということです。
栄化とは、信仰者がキリストのかたち(エイコーン、εἰκών)に完全に似せられることです。これは抽象的な比喩ではありません。パウロは復活の体について、第一コリント15章でこう述べます。
すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
第一コリント15章49節(口語訳聖書)
ピリピ書3章はさらに具体的です。
彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
ピリピ人への手紙3章21節(口語訳聖書)
このように、栄化は復活と切り離すことができないものです。栄化された信仰者とは、キリストの復活の体と同じ形に変えられた者であり、キリストとともに永遠に主の前にある者なのです。
「すでに」始まっている栄化
栄化は最終的には未来の出来事です。しかしCampbellが強調するように、そのプロセスはすでに始まっています。
第二コリント3章18節でパウロはこう語ります。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(口語訳)。
「栄光から栄光へ」(ἀπὸ δόξης εἰς δόξαν)。Campbellは、これを「主の栄光から信仰者の栄光へ」と読むのがふさわしいと論じます。信仰者は今すでに、主の栄光を見つめるなかで、主と同じ姿へと少しずつ変えられている。聖霊の働きによって、栄化のプロセスは現在進行中なのです。
ここに、これまで何度も触れてきた「すでに/いまだ」の構造がふたたび姿を現します。栄化はパルーシアにおいて完成しますが、その完成への過程はすでに動き始めている。聖霊によって、信仰者は今この瞬間も、栄光から栄光へと変えられつつあるのです。
共に分かち合われる栄光
Campbellが栄化について最も印象的に語っているのは、それが何よりも「関係」をめぐる出来事だという点です。
On the basis of predestination, believers are called, justified, and glorified. Arguably this reflects a type of ordo salutis in which there is a logical progression from predestination, to calling, to justifying, to glorifying. There is also arguably a progression in the proximity of relationship through the sequence. People predestined are foreknown by God, but they do not yet know him. But once called, they come into a relationship with him through Christ. And once in Christ, they are justified and set right with God without any barrier of sin or shame. And because they are justified, they will be glorified on the last day—which, as we have seen on several occasions, will involve sharing in the glory of Christ. This participation in the glorification of Christ is a relationally intimate, shared experience of glory. Unlike other elements of participation with Christ—dying with Christ, burial with Christ, rising with Christ, suffering with Christ—glorification with Christ will occur in his physical presence.
予定に基づいて、信者は召され、義とされ、栄光を受けます。これは間違いなく、予定から始まり、召命、義認、そして栄化へと至る論理的な進展がある一種の「救済の順序(ordo salutis)」を反映しています。また、この順序が進むにつれて、関係性の近さ(親密さ)にも進展が見られます。予定された人々は神によってあらかじめ知られていますが、彼ら自身はまだ神を知りません。しかし、ひとたび召されると、彼らはキリストを通して神との関係に入ります。そして、一度キリストの内に置かれると、彼らは義とされ、罪や恥といった障壁なしに神との正しい関係に導かれます。義とされているがゆえに、彼らは終わりの日に栄光を受ける(栄化される)ことになります。これまで何度か見てきたように、これにはキリストの栄光にあずかることが含まれます。キリストの栄化へのこの参与は、関係性において親密な、分かち合われる栄光の体験です。キリストと共に死に、共に葬られ、共によみがえり、共に苦しむといった、キリストへの「参与」の他の要素とは異なり、キリストとの栄化は、キリストの物理的な臨在のなかで起こるのです。
Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2020), 261-262.Campbellによれば、信仰者がキリストに参与する他の側面、すなわちキリストとともに死ぬ、葬られる、よみがえる、苦しむといった出来事は、いずれもキリストの肉体的な不在のうちに経験されます。しかし、栄化は違います。栄化は、キリストの臨在のうちで、キリストご自身と顔と顔を合わせて起こる出来事なのです。
これは栄化の最も深い意味なのかもしれません。栄化とは単に信仰者が栄光ある状態になることではなく、信仰者が、自分がそれまで長く似せられてきたお方の臨在に迎え入れられることなのです。
ぼくどくメモ
これまで「救いとは何か」シリーズにて、罪・贖罪・義認・聖化・栄化と、五つのテーマを順に追ってきました。
書きながら改めて感じたのは、栄化は単独のテーマではないということです。栄化はこれまで見てきたすべてのテーマの収束点であり、さらには、終末論シリーズ全体とも深くつながっています。Campbellの本書のタイトル『Paul and the Hope of Glory』、「パウロと栄光の望み」という主題が、改めて深く響いてくるように思いました。
パウロが語る栄化は、感傷的な慰めではなく、確かな神学的な根拠をもった希望です。そのことを思う時、栄化とは、決して不確かな事柄ではなく、今を生きる者にとって、必要不可欠なものであることを考えさせられます。
「義とした者たちには栄光を与えて下さったのである」(ローマ8:30)。アオリスト形で語られたこの過去時制は、神の側からはすでに決まっている未来の表現であることを見ました。信仰者はこの確定された未来へと、今招かれていることを深く心に刻みたいと思います。
参考文献:Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2020).
