*シリーズ「ゴーマンと参与の神学」の第4回です。第1回から順にお読みいただくと、より理解が深まります。
このシリーズもいよいよ核心に近づいてきました。今回扱うのは、マイケル・ゴーマンの神学の中で最も大胆で、そして日本のプロテスタント教会の読者にとっては、おそらく最も戸惑いを覚えるであろう主題です。それは、「テオーシス(theōsis、神化)」です。
「神化」。人が神になる、と読めてしまうこの言葉に、私たちは思わず身構えるかもしれません。実際、ゴーマン自身が、西方教会の神学者たちのこの言葉への警戒を率直に述べています。あるプロテスタントの神学者は、この語を口にされると「アレルギーが出そうだ」と冗談めかして言い、別の著名な聖書学者は、ある学会で「テオーシスという言葉は私を心底ぞっとさせる」と語ったというのです。
それでもなお、ゴーマンはこの言葉を用います。なぜなら、彼にとってテオーシスこそ、パウロの救済論の最も深い部分を言い表す言葉だからです。本記事では、この誤解されやすい概念を、ひとつずつ丁寧にみていきたいと思います。
テオーシスとは何か
最初に、最も大切なことを確認します。それは、ゴーマンの言うテオーシスは、「人間が神になる」ことでは決してないということです。
「神化」「神性化」と訳されるこの語は、もともと東方正教会の伝統において大切にされてきた古い神学概念です。西方教会(カトリックやプロテスタント)ではあまり馴染みがありませんが、東方教会では、救いの究極の姿を「テオーシス」という言葉で言い表してきました。
ここで肝心なのは、テオーシスが意味するのは「人間が神に似た者となる(becoming like God)」ことであって、「人間が神そのものになる」ことではない、という点です。私たちが造り主である神と同じ存在になったり、小さな神々になったりするわけではありません。被造物である人間は、どこまでも被造物であり続けます。
では、何に似ていくのか、と言えば、ゴーマンの答えがここで決定的に重要になります。私たちが似ていく「神」とは、ほかでもない、十字架につけられたキリストにおいて姿を現された神なのです。
「神に似る」とは「キリストに似る」こと
ゴーマンの議論の出発点は、第2回の記事でも扱ったピリピ書2章6-11節の「キリスト賛歌」です。彼はこの讃歌を、単にキリストがどのようなお方かを語る箇所としてではなく、神がどのようなお方かを啓示する箇所として読みます。
どういうことでしょうか。ピリピ書2章によれば、キリストは「神のかたち」でありながら、それを自分の利益のために用いず、かえって自らを低くし、しもべとなり、十字架の死にまで従われました。ゴーマンは、ここに神ご自身の本質が現れていると見ます。つまり、神とは、力を誇示し高く昇ろうとするようなお方ではなく、むしろ自らを低くし、自らを与え尽くすお方なのだ、ということです。神の本質そのものが、十字架の形(クルシフォーム)をしているのです。
そうだとすれば、「神に似た者となる」ことの意味も、おのずと定まってきます。神がキリストのようなお方であるならば、キリストに似ていくことが、そのまま神に似ていくことになります。ゴーマンはこれを、レビ記で神が「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」と命じられたのにならって、神はこう言われるのだ、と印象的な一文で言い表しています。
“You shall be cruciform, for I am cruciform,” says the Lord.
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009), 124.
「あなたがたは十字架の形をした者でなければならない。わたしが十字架の形をした者だから」と主は言われる。ここに、このシリーズでこれまで繰り返し取り上げてきた「クルシフォーミティ」と「テオーシス」が、ひとつに結ばれます。つまり、十字架の形に造り変えられること(クルシフォーミティ)は、究極的には神の似姿に造り変えられること(テオーシス)にほかならないということです。ゴーマンが繰り返す中心命題、「クルシフォーミティは、実はテオフォーミティ(神の形への形成)、すなわちテオーシスである」とは、このことを指しているのです。
ゴーマンによるテオーシスの定義
これらをふまえて、ゴーマンはテオーシスを次のように定義します。彼の最も中核的な定義文です。
Theosis is transformative participation in the kenotic, cruciform character and life of God through Spirit-enabled conformity to the incarnate, crucified, and resurrected/glorified Christ, who is the image of God.
Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI; Cambridge, U.K.: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009), 125.
テオーシスとは、自らを空しくする、十字架の形をした神の本質と生への、変革をもたらす参与である。それは、受肉し、十字架につけられ、復活し栄光を受けられた、神のかたちであるキリストへと、御霊によって同形化されることを通して実現する。少し難しい定義ですので、噛み砕いてみましょう。
まず「参与(participation)」という言葉が中心にあります。これはこのシリーズの背骨でした。テオーシスとは、神の本質に「あずかる(与る)」ことです。次に「変革をもたらす(transformative)」とあります。「参与すること(あずかること)」は、私たちを実際に変えていきます。そして「御霊によって(Spirit-enabled)」という限定が重要です。これは人間の努力や修行によって達成するものではなく、聖霊が可能にしてくださる神の恵みの御業だということです。
したがって、テオーシスとは、自分の力で神に近づこうとする上昇の試みではありません。むしろ、十字架において自らを低くされた神の本質に、聖霊によってあずからせていただくという、徹底して受け身の、恵みの出来事なのです。
プロテスタント教会はこの言葉を受け入れられるか
それでもなお、率直な疑問が残ります。「神化」「神性化」といった、いかにも東方教会的な、そしてどこか危うく響く言葉を、宗教改革の伝統に立つプロテスタント教会が受け入れることはできるのでしょうか。
ここで2つのことを申し上げたいと思います。
第一に、実はこの概念は、聖書そのものに根拠を持っているということです。ペテロの手紙第二1章4節は、信仰者が「神の性質にあずかる者(partakers of the divine nature)」となる、と語っています。「神の性質にあずかる」という、この大胆な表現は、まさにテオーシスの聖書的な源泉のひとつだと言えます。私たちは、この聖句を読むたびに、実はテオーシス的な現実に触れていたのかもしれません。
第二に、テオーシスの視点からパウロを読むのは、決してゴーマン一人の突飛な主張ではありません。現代のパウロ研究を代表するN・T・ライトは、その大著『Paul and the Faithfulness of God』のなかでこう述べています。聖霊が信仰者のうちに住まわれることを論じた箇所です。
If the spirit of the living God dwells within his people, … then the work of this transforming spirit can and must be spoken of in terms, ultimately, of theōsis, ‘divinization.’
N. T. Wright, Paul and the Faithfulness of God, vol. 4, Christian Origins and the Question of God (Minneapolis: Fortress Press, 2013), 1021.
生ける神の御霊がご自分の民のうちに住まわれるなら、…この変革をもたらす御霊の働きは、究極的には、テオーシス、すなわち「神化」という言葉で語ることができるし、語らねばならないのである。
また、モーナ・フッカーやダグラス・キャンベルといった研究者たちも、パウロの救いをテオーシスとして捉える可能性を認めています。これは、現代パウロ研究の重要な潮流のひとつだと言えるかと思います。
一方で、慎重な声があることも事実です。テオーシスという言葉は誤解を招きやすく、人間の高慢を助長しかねないという懸念は、もっともなものでしょう。ゴーマン自身、そうした批判を承知のうえで、あえてこの言葉を用いています。彼がこの語を使い続けるのは、それが「人間が神になる」という方向ではなく、むしろ「自らを低くされた十字架のキリストに似ていく」という、正反対の方向を指し示すからです。テオーシスは、高慢の道ではなく、徹底した謙遜の道なのです。
ぼくどくメモ
神学校の授業で「神化」という言葉を初めて聞いた時は驚きました。はっきり言って、そのような伝統に触れる機会は、それまでの私の環境にはありませんでした。率直に言って、この言葉から連想されるイメージは、人間を神の座に引き上げようとする、傲慢な思想ではないかと思ったのです。
ですが、ゴーマンの神学に触れて、そのような理解は大きく変わりました。ゴーマンの言うテオーシスは、私が恐れていたものとは正反対のものだったからです。それは、私が神のように高くなることではなく、自らを低くして十字架にまで下られたキリストに、私が似ていくことでした。テオーシスの道は、上り坂ではなく、下り坂だったのです。
考えてみれば、私たちの信仰生活が目指してきたものは、まさにこれではなかったでしょうか。キリストに似た者となること。キリストの心を自分の心とすること。隣人のために自らを与える者となること。私たちはそれを「聖化」と呼んできました。ゴーマンは、その聖化の究極の姿に、「テオーシス」という古い、しかし豊かな名前を与え直してくれたのだと思います。
「神の性質にあずかる者となる」。ペテロ書のこの言葉は、決して人間の神格化を語っているのではありません。それは、自らを与え尽くす神の愛のかたちに、私たち自身が少しずつ造り変えられていくという、福音の最も深い約束だと言えます。そしてそのような「造り変えられること」は、私の努力によってではなく、私のうちに住んでくださる聖霊によって、決して劇的ではないかもしれませんが、確かに進められていきます。
ゴーマンの参与の神学を考える上で、このテオーシスは中核をなすものだと言えます。しかし、同時に、このことを受け入れることは、西方教会の伝統に立つ者にとっては違和感があることかもしれません。ですが、だからこそ考えたいことがあります。それは、ゴーマンの言うテオーシスは、「信仰のみ、恵みのみ」という宗教改革の心臓部と、少しも矛盾していない、ということです。むしろそれは、その恵みがどれほど深く私たちを造り変えるのかを、改めて教えてくれるものなのではないでしょうか。
