「地獄」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
もしかしたら、燃え盛る炎。叫び声。永遠に続く拷問。悪魔。子どもの頃に絵本やテレビで見た、あるいはどこかの壁画で見たような、あのおどろおどろしい光景かもしれません。
私たちの多くは、心のどこかでそうしたイメージを持っているように思います。信仰のある人にもない人にも、「地獄」という言葉には、子どもの頃に植え付けられた漠然とした恐怖が、なぜかついて回るものです。
しかし、改めて考えてみると、果たしてそのようなイメージは聖書に基づくものなのでしょうか。そして、私たちが本当のところ恐れているのは一体何なのでしょうか?
なぜ私たちは地獄を恐れるのか
地獄を恐れる理由として、まず思い浮かぶのは、痛みや苦しみへの恐れでしょう。燃える炎の中で焼かれたくない。永遠の拷問を受けたくない。誰だってそんなところには行きたくないと思うのは自然な反応です。
しかし、ここで少し視点を変えてみる必要があるように思います。私たちが「地獄」を恐れる時、本当のところ、何を恐れているのでしょうか。
もう少し言うと、「痛みが怖いから、それを避けるために生きる」という考え自体が、本当に私たちの本来の生き方なのでしょうか。
聖書を通して読むと、気づくことがあります。それは、聖書が一貫して語っているのは、「神と共に歩むこと」であって、「何かに怯えて歩むこと」ではない、ということです。
もし「地獄」という言葉が、本当に大切な何かを私たちに告げているのだとすれば、それは「あの場所に行きたくないから怯えて生きよ」という脅しではないはずです。むしろそれは、神から離れて生きるという、すでにそこにある現実そのものを、私たちに見させようとしているのではないでしょうか。
同じ教室、二つの体験
ここで一つ、たとえを用いて具体的にイメージしてみたいと思います。
ある教室があるとします。一人の先生がいて、生徒たちが座っている。そして、授業が始まる。
同じ場所で、同じ言葉を聞いているのに、一人の生徒は目を輝かせて時間を忘れ、もう一人の生徒は退屈と苦痛の中で身じろぎもできずに、ただその時間が過ぎるのを耐えている。
同じ部屋、同じ先生、同じ授業。それなのに、一人は天国にいて、もう一人は地獄にいる。
このたとえが示しているのは、「気の持ちよう」の話ではありません。一人の生徒は、その学びの場と本当に関係を結んでいる。先生との間で、何かが本当に通っている。もう一人の生徒は、同じ部屋にいながら、その関係が成立していない。違いは「感じ方」ではなく、そこで関係が実際に結ばれているか、いないか、というリアルな違いです。
地獄とは、もしかしたらこういうことかもしれません。それは遠くの「場所」ではなく、いま、ここで、本来結ばれるべき関係が結ばれていないという、極めてリアルな現実です。神は常に私たちに語りかけ、愛を注いでおられます。けれども、ある者はその愛を受け取り、ある者はそれを拒んでいる。同じ「教室」にいながら、その「現実」がまったく違ってしまうのです。
神の国と地獄、どちらも「すでに」ある現実
ここまで来ると、もう一つの対比が見えてきます。
聖書は「神の国」について、それは終末に完成される将来の現実であると同時に、すでにキリストにあって到来している、と告げています。信仰者は、来るべき神の国を「先取りして」、今、ここで生きているのです。これは「心」の話ではなく、リアルな現実です。神との関係の中に生かされているということが、その人の生を本当に変えてしまうのです。
そして、まさにこの対比として、地獄もまた然りなのです。神の国が「すでに」と「いまだ」という二つの次元の重なりであるならば、地獄もまた「すでに」と「いまだ」が重なっていると言えます。つまり、神から離れて生きている今この状態こそが、すでに地獄のリアリティを構成している。「死後どうなるか」の話ではなく、今この瞬間に作動している現実だということです。
このことを、最も鮮やかに描いているのは、おそらくイエスご自身が語られた「放蕩息子のたとえ(失われた二人の息子)」(ルカ15章)でしょう。
この物語には二人の息子が登場します。
弟息子は、父からの財産を要求して家を出ました。遠くの国で放蕩のかぎりを尽くし、すべてを失い、豚の餌を食べたいと思うほどの極度の貧しさに陥ります。彼が選んだ「自由」が、結果として彼の「地獄」になりました。彼の地獄は、誰かに押し付けられたものではありません。父から離れて自分の好きなように生きることを選び続けた末に、彼自身が内側から鍵をかけて閉じこもった、その「自分一人の生」が、地獄の姿となって現れたのです。
しかし、もう一人の息子、兄息子の姿は、もっと不思議で、もっと深く私たちに語りかけます。彼は弟のように家を出ていきませんでした。ずっと父のもとに住み、父の食卓につき、父の家で生活してきたのです。
ところが、弟が帰ってきて、父が盛大な祝宴を開いた時、衝撃的な場面が描かれます。兄は、その祝宴の席に入ろうとしませんでした(ルカ15:28)。父はわざわざ宴の席を立って、兄を招きに外へ出ていきます。しかし、兄の心は閉ざされていました。「私はこれだけのことをあなたに仕えてきたのに、あなたは私のためには何もしてくれなかった」。
このような兄弟の対比から、興味深い点が浮かび上がります。つまり、ずっと父の家に住んできたはずの兄が、いざ父が喜びの祝宴を開くとなると、つまり、父との真の交わりが行われる場面になると、そこに足を踏み入れることができなかったのです。ここで明らかになることは、父の家にいることと、父との交わりに生きることは、別のことだった、という事実です。
すなわち、兄息子が立っていたその場所こそが、彼にとっての「地獄」だったのです。
これは、私たちに何を語りかけているでしょうか。このことから、地獄とは、必ずしも「神から物理的に遠く離れた者」だけが経験するものではない、ということが言えるのではないでしょうか。神のすぐそばにいながら、心が閉ざされていれば、その場所こそが地獄になる。教会の中にいながら、信仰の言葉に囲まれながら、それでも父との交わりを欠いていれば、その人は地獄を生きている、ことになるのではないでしょうか。
物語は、兄息子が祝宴に入ったかどうかを語らずに終わります。それはまさに、今、私たち自身の選択に開かれた問いとして、開かれたままになっているのです。
結局、地獄とは何なのか
私たちが日常で味わう「地獄のような」経験、つまり人と人との関係から取り残されたという感覚は、確かに本物の痛みです。しかし、聖書が「地獄」という言葉で本当に問いかけているのは、もう一つ深いレベルの話です。つまりそれは、私たちと人との繋がりではなく、私たちと自分を造ったお方との繋がりが断たれているという、極めてリアルな状態についての話だと、いうことです。
そして、ここまで見てきたように、この「神からの分離」は、決して「いつか」「あの世で」始まる話ではありません。神から離れて生きている今この状態こそが、すでに「地獄」の現実そのものになり得るということです。それは「気持ち」や「気の持ちよう」の問題ではありません。生きていることの根本的な方向が、本来結ばれるべき関係を欠いたまま営まれているという、客観的な現実です。それが、まさに兄息子に起きていたことではないでしょうか。
人と人との関係が壊れた時、私たちはまだ希望を持っていられます。「いつか、誰かが理解してくれるかもしれない」と思うことができます。しかし、もし自分の存在そのものを支えているお方との繋がりが断たれているなら、それは私たちの存在の核に関わる事柄です。感じる・感じないの問題ではなく、生きている方向そのものが、神なしに進められているという、紛れもない現実なのです。
イギリスの作家C.S.ルイスは、『天国と地獄の離婚』(原題 The Great Divorce)という小説の中で、こう書いています。
C.S.ルイス、柳生直行・中村妙子訳『天国と地獄の離婚 ひとつの夢』(新教出版社、2006年)、107頁結局、人間には二種類しかいないことになる。すなわち、神に向かって、『みこころをなさせたまえ』と言う人たちと、神からついに、『なんじの欲するところをなせ』と言われる人たち。地獄にいる者はすべて、地獄を選んだのだ。この主体的選択なしには、地獄など存在するはずがない。真剣にたえまなく歓びを求める者は、かならずこれを獲得する。探す者は見出し、門をたたく者はあけてもらえるのだ。
ルイスにとって、地獄とは神が誰かを罰として「投げ込む」場所ではありません。神との関係を、自分で拒み続けた人が最終的に行き着く「独り」の完成形こそが、地獄なのです。「地獄の門は内側から閉ざされている」というのが、ルイスのよく知られた一句です。
そして同時にルイスは、「探す者は見出す」のだ、とも言っています。神との繋がりを本気で求めるなら、その扉は決して閉ざされてはいません。地獄は私たち自身の選択の結果でしかなく、神は最後の最後まで、私たちが戻ってくることを待っておられる、ということです。
ただし、ルイスの主張を理解する上で、もう一つ大切な視点があります。それは、ルイスのこのような洞察は深い一方で、彼自身がプラトン主義的な傾向を持っていたこともまた見逃せないという点です。プラトン主義とは、ごく簡単に言えば「人間には『魂』と呼ばれる不死の部分があり、それこそがその人の本質である」とする考え方で、この立場では、肉体や物質、そしてこの世界そのものが、どこか二次的なものとして退けられがちになります。
新約聖書学者のN.T.ライトは、その著書『驚くべき希望』の中で、ルイスについて興味深い指摘をしています。まずライトは、ルイスをこう絶賛します。
彼(ルイス)は、私たちがよみがえりの体を具体的に想像するのを助けてくれた、数少ない現代の作家の一人である。現在の体より確かで、より本物で、より実態のある体とはどのようなものか、ルイスはいろいろな箇所で、とりわけその驚くべき著作『天国と地獄の離婚』で私たちに思い描かせてくれた。
N.T.ライト、中村佐知訳『驚くべき希望』(あめんどう、2018年)、266-267頁
ところが、ライトはこうも指摘しています。
プラトン主義者は、すべての人間は通常『魂』と呼ばれる不死の部分を持つと信じている(C.S.ルイスを誉めたばかりだが、彼もまたこの罠にハマっているようだと言わねばならないだろう)。
N.T.ライト、『驚くべき希望』、268頁
ライトが警戒しているのは、ルイスから「地獄は内側から鍵をかけられている」という洞察を受け取った私たちが、そのままルイスのプラトン主義的傾向に引きずられて、「結局、地獄とは、魂の話、霊的・内面的な話なんだ」と理解してしまうことです。それは違うのだ、とライトは言うわけです。
聖書が語る地獄、そして神の国は、「霊的に想像される領域」の話ではありません。それは、この世界において、この体において、この社会において、リアルに作動する現実です。要するに、神との関係を欠いて生きていることは、心の問題ではなく、私たちの全存在の問題だということです。
神への畏怖
ここで、聖書一貫して語る一つの言葉に改めて注目したいと思います。
主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。
箴言9章10節(口語訳聖書)
ここで言われている「おそれる」は、聖書翻訳によって「畏れる」と訳されることもあれば、「恐れる」と訳されることもあります。日本語ではこの二つは別の言葉のように見えますが、実際のニュアンスとしては、その両方の意味を含んでいると言えます。むしろ「畏怖」、つまり畏敬と恐れが分かちがたく重なり合った感覚こそが、ここで指されている事柄に近いように思われます。
そして、ここで排除されているのは、罰を逃れるための、自分本位な怯えです。それは、たとえば「叱られたくないから、親の機嫌を損ねないように振る舞う」という子どもの態度に似ています。そこでは、関心の中心にいるのは親ではなく、罰を免れたい自分自身です。同じように、「地獄に落ちたくないから、仕方なく神に従う」という態度の中心にいるのは、神ではなく、損をしたくない自分だと言えます。
しかし、神の聖さの前に立たされた者の内に湧き上がる「畏怖」は、それとはまるで違います。聖さへの震えと、その方への深い畏敬と憧れ、その方から離れたくないという願い。そこでは、関心の中心にいるのは自分ではなく、神ご自身です。そしてこの「畏怖」は、聖書全体を通じて、一貫して肯定されているものなのです。
イエスご自身、弟子たちを迫害の中へ送り出すにあたって、こう教えられました。
また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
マタイによる福音書10章28節(口語訳聖書)
ここでイエスが促しているのは、自分の身を守るために神に怯えることではありません。むしろ、人間の脅しに振り回される生き方から解放されて、ただ神おひとりを見上げて生きる、ということです。
聖書が私たちに招いているのは、地獄に怯えて自分を守るための人生ではなく、この方を真剣に畏れ、この方と共に歩む人生です。地獄からの逃避ではなく、神への憧れによって動かされていく生き方なのです。
そのように理解すると、地獄への向き合い方も変わってくるのではないでしょうか。「あんな目に遭いたくない」という防衛的な怯えから、「あの方を、永遠に失いたくない」という、もっと深く、もっと愛に近い真剣さへ。それはもはや、私たちを縛り付ける恐怖ではなく、神に向かって歩み続けるための、心の方向となります。
聖書に見られる「ゲヘナ」の言及について
聖書を知っている人からは、ここで一つの疑問が浮かぶかもしれません。
「でも聖書には、地獄(ゲヘナ)の火に焼かれるとか、虫が尽きないとか、激しい表現がたくさんありますよね?」
確かに、その通りです。イエスご自身が、ゲヘナという言葉を激しいイメージで使われていることは事実です(マルコ9:48)。
しかし、ここで思い起こすべきは、聖書がこうした「炎」「虫」「闇」「歯ぎしり」といったイメージを用いる時、それはダニエル書や黙示録と同じ系列の象徴的な言語だということです。たとえば、黙示録に出てくる七つの頭を持つ竜は、実在の生物ではありません。それは「ローマ帝国の脅威」というリアルな現実を、目に焼き付くイメージで描き出すための象徴です。
ゲヘナも同じです。激しいイメージは、それ自体が直接的な描写なのではなく、その背後にある「リアルな何か」を、忘れがたい形で読者に届けるための器なのです。
では、その「リアルな何か」とは何でしょうか。
それこそが、神からの究極的な分離です。
聖書はその激しいイメージを通じて、「軽く考えるな、これは本気で受け止めるべきことだ」と私たちに告げています。けれどそれは、私たちを脅して何かをさせるためではなく、神と共に歩むことが、本当はどれほど大切なことなのかを、忘れがたい形で伝えるためなのです。
終わりに
「地獄」を、燃え盛る炎の場所として怯えている限り、私たちはどこか他人事のように、それを遠ざけて生きていられます。「私は良い人間だから関係ない」「死後のことは死んでから考える」。
けれども、地獄が、自分を造られた神からの分離であり、それが今すでに進行している現実であるならば、それはもう、遠ざけておける他人事ではありません。問いは突然、自分自身のこととして立ち上がってきます。
私は今、神とどんな関係に立っているだろうか。 私はその方を、どこかで畏れ、慕い、求めているだろうか。 それとも、少しずつ、その方から離れる方向へと、自分を閉ざし始めていないだろうか。
これこそが、「地獄」という古い言葉が私たちに本当に問いかけていることなのではないでしょうか。
