詩篇89篇は、詩篇の中でも「長い」部類に入ります。全部読むのも、なかなか一苦労です。
全部で52節もあるこの詩篇は、前半で延々と神様への賛美が続いたかと思えば、後半に入ると急転直下、神様への激しい嘆きと告発に変わります。長くて感情の起伏も激しいため、どうしても敬遠されがちな詩篇の一つかもしれません。
しかし、実はこの詩篇、「前半と後半の対応関係(構造)」がわかると、驚くほどスッキリと理解できるようになります。そして、その構造に隠された詩人の「魂の叫び」に気づいたとき、この詩篇が私たちにとってどれほど深い慰めと希望に満ちた祈りであるかがわかるはずです。
今回は、この詩篇89篇の読み方をガラリと変える「隠された構造」を見ていきたいと思います。
前半の「賛美」は、後半のための伏線
詩篇89篇は、大きく二つの部分に分かれています。
- 前半(1〜37節): 神の永遠の「恵み」と「真実」、そしてダビデと結んだ「契約」に対する高らかな賛美
- 後半(38節〜): 「しかし、あなたは拒んでお捨てになりました」と始まる、現実の崩壊に対する激しい嘆きと告発
なぜ詩人は、前半部分でこれほどまでに様々なフレーズを駆使して神様を賛美しているのでしょうか? 実は、前半の賛美は、後半で神を問い詰めるための「準備」であると考えることができます。そのように考えると、この前半部分というのは、「神様、あなたはかつて、ご自分の口で確かにこう約束されましたよね?」と、神様ご自身がサインした契約書を詩人が読み上げているようなイメージが浮かんでくると思います。
そして、そのことを裏付ける根拠は、前半部分と後半部分で使われるフレーズが共通しているということです。つまり、前半の賛美で使われたヘブル語の単語が、後半の嘆きの部分では、神様に迫るための「武器」として、そっくりそのまま裏返しに使われています。
そこで、代表的な5つの対応を見てみましょう。
1. 「恵み(ヘセド)」と「真実(エムーナー)」
この詩篇を貫く最も重要なフレーズです。
- 前半(賛美): 「私は主の恵み(ヘセド)真実(エムーナー)恵みをもぎ取らず、わたしの真実を偽らない」(33節)と誓っています。
- 後半(問い): それが後半になると、「主よ、あなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか。あなたは真実をもってダビデに誓われたのです」(49節)と、鋭い刃となって神様に向けられます。
2. 「契約(ベリート)」を「汚す(ハラル)」
神ご自身が引いた境界線が、神ご自身によって破られたという痛烈な告発です。
- 前半(誓い): 「わたしは、わたしの契約(ベリート)汚さない(ハラル)」(34節)
- 後半(現実): 「あなたは、あなたのしもべとの契約を廃棄し、彼の王冠を地に捨てて汚しておられます」(39節)
3. 「右の手(ヤミーン)」と「高く上げる(ルーム)」
神の力強い守りの手が、なんと「敵の側の勝利」へと移譲されてしまっているという強烈な皮肉です。
- 前半(守り): 「(神の)右の手(ヤミーン)高く上げられています(ルーム)」(13節)
- 後半(敵の勝利): 「あなたは彼の仇の右の手を高く上げ…」(42節)
4. 「敵(オーイェーヴ)」の敗北から、敵の歓喜へ
- 前半(約束): 「敵(オーイェーヴ)が彼(注:イスラエルの王)に害を加えることはなく」(22節)
- 後半(現実): 「彼の敵をみな喜ばせておられます」(42節)
5. 「油注がれた者(メシア)」への嘲り
そして、詩人の痛みの核心です。
- 前半(選び): 「わたしの聖なる油で、油を注いだ(マーシャフ)」(20節)
- 後半(拒絶): 「あなたは激しく怒っておられます。あなたに油注がれた者(メシア)に向かって」(38節)
食い下がるような切実な祈り
いかがでしょうか?このような鮮やかな言葉の対応関係に気づくと、詩篇89篇がただ漫然と長い詩ではなく、「神の言葉を逆手にとって、神に迫っている」といういわばスリリングな展開を持っていることがわかります。
この詩において詩人は、「約束が違うじゃないですか!」「敵ではなく、ほかならぬ『あなた(神様)』が、私たちを打ち砕いたのではないですか!」と、現実の崩壊を前に、神に怒りと疑問をぶつけています。
これは一見すると不信仰に思えるかもしれません。しかし、これは不信仰どころか、旧約聖書の時代から神の民がささげてきた、最も正直で力強い祈りの姿だと言えます。「あなたが真実な方であることを信じているからこそ、この現実が理解できない。だから、手遅れになる前に動いてください!」と、神に食い下がるような、しぶとい信仰者の姿がここにはあります。
結びの「アーメン」
私たちの人生の中にも、自分が信じていることと現実の状況が一致せず、答えが見えない時期を通ることがあります。そのような「現実と信仰の矛盾」に対して、古代イスラエルの人々がどのように向き合っていたのかを、詩篇89篇の「構造」は教えてくれます。
この詩篇の著者は、ただ感情に任せて嘆いているわけではありません。前半で神様の「恵みと真実」や「契約の言葉」を丁寧に積み上げ、後半でまさにその同じ言葉を用いて「なぜ現実が違うのか」と神様に問いかけています。これは、神様ご自身の約束を根拠にして神様に迫るという、非常に論理的で神学的な祈りのアプローチです。
そして興味深いのは、この詩篇が最後まで明確な答えを提示しないまま終わるという点です。しかし、この長くて激しい嘆きの詩篇の最後に、神の民の共同体はあえてこの言葉を付しました。(※この52節は、詩篇集の第3巻全体を締めくくるために後から付加されたとするのが多くの学者の見解ですが、オリジナルだったとする立場、あるいは、断言はできないという立場もあります。)
「主はとこしえにほむべきかな。アーメン、アーメン。」(52節)
この結びに置かれた「アーメン(真実です)」という言葉が、この詩の構造的な着地点として機能しています。なぜなら、「アーメン」は、前半の賛美と後半の問いを貫いていた「真実(エムーナー)」と、もとの形(語根)が同じ言葉だからです。
現実は何も変わっていないし、答えも見えない。それでも、崩れ落ちた瓦礫の中で、歯を食いしばりながら「神よ、今は何も見えません。でも、それでも、あなたは真実な方であるはずだ。私はあなたにすがりつきます。アーメン(真実です)」と告白する。状況は何も解決していなくても、それでも神様の本質は「真実」であるという宣言をもって、この複雑な詩篇は閉じられています。それが、この詩篇を締めくくる究極の希望の応答であり、信仰共同体はそのようにしてこの詩篇を歌い継いできたのです。
一見すると長くて難解に思える詩篇89篇ですが、このように「前半と後半の言葉の対比」や「エムーナー(真実)からアーメン(真実です)へのつながり」といった構造を意識することで、単なる絶望の歌ではなく、深い思索に満ちた精巧なテキストとして読めるようになります。
長い箇所というのは、読んでいると何が言われているのかよくわからなくなってくることがしばしばですが、この「隠れた構造」が見えてくると、言葉がどのように対応しているのかが鮮やかに浮かび上がってきます。構造が分かれば、恐れるに足らずです!そして、その意味が分かれば、単なる古代のテキストを超えて、今の自分の心に迫る力強い言葉としても響いてくるのではないかと思います。
