「永遠のいのち」という言葉を聞くと、どのようなイメージが思い浮かぶでしょうか。

多くの人にとって、それは「死後、魂が天国に行って永遠に続く状態」を意味するかもしれません。このような、この世での歩みを終えた先にある、どこか遠い、静かな場所といったイメージは、クリスチャンの間でも浸透している実情があります。

しかしパウロが語る「永遠のいのち」は、そうしたイメージとは少し違う姿をしています。そしてそれは、パウロ神学における終末論のもう一つの重要なテーマである「相続」と深く結びついています。今回は、この二つのテーマを重ねて考えてみたいと思います。

永遠のいのちとは「関係的な存在」

まず、パウロが語る永遠のいのちの性格をC. R. Campbell(キャンベル)の指摘から確認します。

Eternal life is not seen as an impersonal, private existence but as life with Christ (1 Thess 5:9–10), informed by righteousness (1 Tim 6:11–12). Living with Christ is the positive counterpart of suffering with him (2 Tim 2:11) and is the hope of heirs who have been justified by the grace of Christ (Titus 3:6–7). Eternal life is thus a relational mode of being, lived in bodies that are no longer subject to death and decay.
[拙訳]永遠のいのちは、非人格的で私的な存在ではなく、キリストとの共なるいのちとして理解されています(1テサ5:9-10)。そのいのちは義によって形づくられています(1テモ6:11-12)。キリストと共に生きることは、キリストと共に苦しむことの肯定的な対応物であり(2テモ2:11)、キリストの恵みによって義とされた相続人たちの希望です(テト3:6-7)。したがって永遠のいのちとは、もはや死と滅びに服さないからだによって生きられる、関係的な存在の様態なのです。

Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2020), 213.

ここで注目したいのは、「関係的な存在の様態」という表現です。永遠のいのちは、時間的に永遠に続くだけの存在ではありません。それは、キリストとの関係の中で生きられるいのちです。

また、「もはや死と滅びに服さないからだによって生きられる」という部分も重要です。これまでの記事でも扱ったように、パウロにとって終末的な希望はからだの復活と結びついています。永遠のいのちは、魂だけが残って別の場所で続くものではなく、刷新されたからだをもって、キリストと共に生きる具体的ないのちなのです。

パウロは第一テサロニケでこう書いています。

神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。

テサロニケ人への第一の手紙5章9-10節(口語訳聖書)

目覚めていても眠っていても、つまり、生きていても死んでいても、キリストと共に生きる。これがパウロの語る永遠のいのちです。

相続というテーマ

永遠のいのちは「相続」という枠組みの中でも語られます。参考として、テトスへの手紙を見てみましょう。

これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。

テトスへの手紙3章7節(口語訳聖書)

「相続」という言葉は、パウロの終末論の中で重要な位置を占めています。パウロはこの言葉を、アブラハムへの約束から始まる大きな物語として展開します。ローマ書4章で、パウロはアブラハムとその子孫が「世界を相続する」(ロマ4:13)と約束されていたことを思い起こさせます。そしてパウロは、この約束に与るのは血統による子孫ではなく、アブラハムの信仰を共有する者たちであると論じます。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、キリストを信じる者は皆、アブラハムの真の子孫として、この約束の相続人とされるのです。

ここで相続されるものは、土地や財産ではありません。キリストにあって刷新されたこの世界全体、そしてその中で生きる永遠のいのちです。前回の記事で扱った「新しい創造」は、この相続の舞台なのです。

御霊は相続の手付金

では、信仰者はこの相続をいつ受け取るのでしょうか。完成は「いまだ」来ていません。しかしパウロは、信仰者がすでにその相続の一部を手にしていると語ります。それが「御霊」です。

エペソ書にはこう書かれています。

この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

エペソ人への手紙1章4節(口語訳聖書)

パウロは第二コリント書簡で同じ表現を用いています。

神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。

コリント人への第二の手紙1章22節(口語訳聖書)

ここで「保証」と訳されている言葉は、ギリシア語ではアラボーン(ἀρραβών)といいます。もともと商業用語で、「手付金」「保証金」という意味を持ちます。つまり、全額のうちの一部を先に受け取ることで、残りが必ず支払われるという保証となる、そのような性格の金銭のことです。

パウロはこの言葉を、信仰者と御霊の関係に当てはめています。御霊は、やがて完全に受け取る相続の「手付金」として、すでに信仰者に与えられている。これは以前の記事で扱った「すでに」と「いまだ」の具体例とも言えます。

完全な相続はまだ来ていません。しかし、その相続が確かに約束されたものであることを、御霊の内住によってすでに確かめることができるのです。

この視点は、信仰生活に静かな確信を与えます。御霊を通して神との交わりを経験しているとき、それは遠い未来の単なる約束ではなく、すでに手にしている相続の一部を味わっているということなのです。

共に苦しみ、共に栄光を受ける

パウロの相続理解には、もう一つ忘れてはならない側面があります。それは、この相続が「キリストと共なる歩み」と結びついているということです。

ローマ書8章でパウロはこう書いています。

もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

ローマ人への手紙8章17節(口語訳聖書)

ここには二つの大切なことが含まれています。一つは、信仰者がキリストとの「共同相続人」とされているということです。相続はキリスト個人のものではなく、信仰者と共に分かち合われるものとして位置づけられています。もう一つは、この共同相続が「共なる苦しみ」と「共なる栄光」という対の中に置かれているということです。

この視点は、信仰生活における苦難の意味を変えます。キリストを信じる歩みには、時に苦しみが伴います。パウロ自身がそのような歩みを生きた人でした。しかしパウロは、その苦しみを単なる不運や試練として受け止めるのではなく、キリストとの結び合わせの一部として、そして来たるべき栄光への道として理解していました。

これは「苦しみを美化する」こととは違います。パウロは苦しみそのものを肯定していたわけではありません。被造物と共に呻きながら(前回の記事で扱ったローマ8章)、しかしその呻きの中で、来たるべき相続への希望を手放さなかったのです。共に苦しむからこそ、共に栄光を受ける。相続はただの報酬ではなく、キリストとの共なる歩みの完成として位置づけられています。

パウロを超えて——ヨハネ福音書の視点

ここで、パウロの終末論という本シリーズの枠組みから少しだけ視野を広げてみたいと思います。新約聖書の中で、永遠のいのちについて最も豊かに語っているのは、実はヨハネ福音書です。

共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では、イエスの中心的な宣教のテーマは「神の国」でした。ところがヨハネ福音書では、「神の国」という言葉はほとんど登場せず、代わりに「永遠のいのち」が繰り返し用いられます。これは偶然ではありません。ヨハネにとって「永遠のいのち」は、ある意味で共観福音書の「神の国」に対応する概念として機能しているのです。

ヨハネ福音書で特に注目したいのは、イエスご自身がされた永遠のいのちの定義です。

永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。

ヨハネによる福音書17章3節(口語訳聖書)

ここでイエスは、永遠のいのちを「知ること」と定義しています。ただしここでの「知る」は、情報や知識を持つことではありません。聖書の伝統において「知る」とは、深い関係の中に入ることを意味します。永遠のいのちとは、神を知ること、つまり神との人格的な関係の中に生きることなのです。

この定義は、先に見たCampbellの「関係的な存在の様態」という理解とも響き合います。パウロもヨハネも、異なる言葉を用いながら、同じ現実を指し示しているのです。永遠のいのちは、場所でもなく、期間でもなく、関係だと言えます。

ヨハネ福音書はさらに、このいのちが「今」の現実であることを強調します。

よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。

ヨハネによる福音書5章24節(口語訳聖書)

ここで、「受け」「移っている」という表現がありますが、これらは将来の約束ではなく、今この時にすでに起こっていることとして語られています。永遠のいのちは、将来約束されているものであると同時に、信仰者がすでに受け取っている現在の現実だということです。

パウロとヨハネは、強調の仕方は異なっても、同じ福音の光を異なる角度から照らしているように思われます。

そして、永遠のいのちと相続についてのパウロの視点は、信仰者の「今」に大きな意味を与えます。

永遠のいのちは、死後の漠然とした状態ではなく、キリストとの関係的ないのちです。そしてそのいのちは、復活の日に始まるのではなく、キリストを信じたその時から、すでに始まっています。パウロは「私たちを、罪過のうちに死んでいたこの私たちをさえ、キリストとともに生かしてくださいました」(エペ2:5参照)と書いています。

この「すでに始まっている」という視点は、コロサイ書においていっそう鮮明に語られています。

このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

コロサイ人への手紙3章1節(口語訳聖書9

信仰者はすでに「よみがえらされた」者として歩むように招かれています。これは比喩ではなく、パウロの終末論における本質的な事柄です。キリストの復活に結び合わされた信仰者は、すでに新しいいのちに与っているからこそ、上にあるものを求める生き方へと召されているのです。

さらにコロサイ書は続けてこう言われています。

あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

コロサイ人への手紙3章3-4節(口語訳聖書)

ここには「すでに」と「いまだ」の両面がコンパクトに凝縮されています。信仰者のいのちは、すでにキリストと共に神のうちに隠されている。しかしその現れは、キリストが現れる時まで、なお待たれている。永遠のいのちは隠された現実として今すでに与えられ、やがて完全に顕わにされるのです。

このように、永遠のいのちは将来の希望であると同時に、現在の現実でもあります。信仰者はすでに、死から命へと移されています。その命は、御霊を通して日々確かめられ、キリストとの交わりの中で育まれていくのです。

相続の完成は「いまだ」来ていません。しかし、手付金としての御霊はすでに与えられています。共なる苦しみは現実ですが、共なる栄光の約束も確かです。この「すでに」と「いまだ」の緊張の中で、信仰者は今日を生きるのです。

ぼくどくメモ

「永遠のいのち」という言葉には、どこか現実離れした響きがあります。しかしパウロを読んでいると、それは決して遠い場所の話ではなく、今このときすでに始まっている、生きた現実として語られていることに気づかされます。

御霊が「手付金」として与えられている、という表現は特に印象的です。商業用語が、神との関係の表現として用いられているのです。神は抽象的な約束だけを与えて私たちを遠くから見つめておられるのではなく、その約束の「一部」を今すでに手に届くものとして与えてくださっています。

相続というのも、どこか遠い日の出来事ではなく、すでに私たちの歩みの中に入り込んでいる現実です。洗礼の日に始まり、日々の祈りの中で確かめられ、やがて完全に受け取られる。その全過程が「永遠のいのち」であり、「相続」なのではないかと思います。


参考文献:C. R. Campbell, Paul and the Hope of Glory (Zondervan Academic, 2020)