前回の記事では、パウロが語る「からだの復活」について考えました。復活とは、魂が天国へ行くことではなく、からだが新しくされて新しい創造の中に生きることです。

それでは、その復活はいつ、どのようにして起こるのでしょうか。

パウロはその答えを、キリストの再臨(パルーシア)と結びつけて語っています。今回は、再臨とそれに伴う最後の審判について考えてみたいと思います。

パルーシア――「再臨」という言葉が意味すること

神学用語では、通常「再臨」という言葉を使いますが、パウロが用いているギリシア語は「パルーシア(παρουσία)」です。この言葉は「再び来る」という意味ではなく、本来は「到着」「臨在」を意味する言葉です。当時のローマ世界では、皇帝や高官が都市を公式に訪問する際に使われていました。つまり、権威ある方がその場に「到着し、そこに臨在する」という意味合いを持つ言葉です。

パウロがこの言葉を選んだことには、深い意味があります。キリストのパルーシアは、単に「遠くに行っていた方が帰ってくる」という出来事ではありません。それは、いま隠されているキリストの支配が、全世界の前に明らかにされる出来事です。

パウロはこの出来事を、「到着」(パルーシア)、「啓示」(アポカリュプシス)、「現れ」(ファネロオー)など、複数の言葉で語っています。いずれも「隠されていたものが顕わになる」という共通の方向性を持っています。キリストは復活と昇天によってすでに万物の主とされていますが、そのことはまだ全世界に明らかにはなっていません。パルーシアとは、その隠された現実が、ついにすべての人の目の前に現れる時なのです。

パウロは第一テサロニケ書簡の中で、この出来事を印象的に描いています。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる」(1テサ4:16)。この描写は黙示文学的なイメージを用いたものですが、パウロが伝えようとしているのは、キリストの到来が隠れたものではなく、宇宙的な規模で公然と起こる出来事だということです。

最後の審判――キリストの支配が完成するとき

パルーシアに伴って起こるのが、最後の審判です。パウロは「キリストの日」に、すべての人がキリストの審判の座の前に立つと語っています(2コリ5:10)。生きている者も死んでいる者も、その心に隠された秘密が明らかにされます(1コリ4:5)。

「審判」という言葉は、私たちに恐怖を感じさせるかもしれません。しかし、パウロの視点では、審判とはキリストの支配が完成するための必然的な過程です。キリストが全創造の主であるならば、その支配のもとに正義と平和がもたらされるためには、すべての悪と不正が正されなければなりません。審判はキリストの義が全世界に及ぶための手段なのです。

ここで大切なのは、審判者であるキリストは、同時に救い主でもあるということです。パウロは「神はわたしたちを御怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いを得させるように定められた」(1テサ5:9)と書いています。すべてを裁くお方が、同時にご自分の民を御怒りから救い出してくださる。裁き主と救い主が同一人物であるということ。これがパウロの審判理解の核心にあります。

信仰者にとっての審判

では、すでにキリストを信じている者にとって、審判はどのような意味を持つのでしょうか。

パウロの答えは、少し緊張感のあるものです。信仰者は審判を免除されるわけではありません。しかし、キリストにあって「責めのない者」として認められ、御怒りから救い出されます。パウロはこの二つのことを同時に語ります。信仰による義認(すでに正しいとされていること)と、最後の審判における行いの評価は、パウロの中で矛盾なく共存しているのです。

これは信仰者にとって、安易な安心でも過度な恐怖でもない、独特の姿勢を求めるものです。「信じているから大丈夫」と自分の歩みを顧みないことも、「審判が怖いから信仰が揺らぐ」と萎縮することも、パウロの意図するところではありません。キリストに属する者として、誠実に、しかし恐れではなく希望をもって生きること。パウロが促しているのは、そのような信仰の姿勢です。

審判は「良い知らせ」なのか

ここで一つ、意外に思われるかもしれないことに触れたいと思います。パウロにとって、最後の審判は究極的には「良いこと」でした。キャンベルの指摘を引用します。

While the day of God’s wrath is no doubt a terrifying and sobering reality, ultimately it is a good thing that Paul anticipates with eager expectation. It is good because justice will be done. It is good because it will mark the end of evil. It is good because it clears the way for the renewal of creation, which will never again be tainted by evil and will never again see the decay that accompanies sin.
[拙訳]神の御怒りの日は確かに恐ろしく厳粛な現実ですが、パウロが熱い期待をもって待ち望む、究極的には良いことです。それは正義がなされるから良いのです。悪の終わりを告げるから良いのです。創造の刷新への道を開くから良いのです。その刷新された創造は、二度と悪に汚されることなく、罪に伴う腐敗を二度と見ることがありません。

Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2020), 393.

正義がなされること。悪が終わること。そして創造が新しくされること。パウロが審判を「待ち望んだ」のは、審判の先にあるこの三つの現実を見据えていたからです。

わたしたちは「裁き」と聞くと、どうしても恐怖や刑罰を連想します。しかしパウロの視点に立つとき、審判はこの世界に蔓延する悪と不正に対する神の最終的な応答であり、それはこの世界で苦しんできたすべての人にとっての朗報でもあるのです。不正がそのまま放置されない。暴力が最後の言葉にならない。そのことを保証するのが、最後の審判です。

興味深いことに、パウロ以外の新約聖書の声もこの理解を裏づけています。ペテロの手紙第二3:10は、多くの邦訳聖書では「地とその上のすべてのものは焼き尽くされる」のように訳されてきました。しかし、最も古い有力な写本群が支持する読みは「焼き尽くされる」(カタカエーセタイ)ではなく、「見出される/暴かれる」(ヘウレセーセタイ、εὑρεθήσεται)です。現在の標準的な校訂本もこちらを採用しています。つまり、「地とそこにあるすべての業は暴かれる」ということ、最後の審判は世界を灰にすることではなく、すべてを神の前に露わにすることなのです。この読みは、審判が破壊ではなく回復への道であるという理解と深く響き合います。

(ちなみに、協会共同訳と新改訳2017では、脚注に「異本:暴かれてしまう/暴かれる」と表記されています。翻訳本文が変わる日も近いのではないでしょうか。)

そして、審判は、前回の記事で扱った「新しい創造」への道を開きます。悪が取り除かれた世界で、神の創造がついに本来の姿を取り戻す。パウロの終末論において、審判と新しい創造は切り離すことのできない一対の出来事なのです。

ぼくどくメモ

「最後の審判」という言葉には、正直なところ、どこか重苦しい響きがあります。しかし今回、パウロのテキストを読み直しながら気づかされたのは、パウロ自身はこの出来事を恐怖としてではなく、「熱い期待」をもって語っているということでした。

それは、この世界の不正や暴力が永遠に続くわけではないという確信に裏づけられた期待です。そして同時に、裁き主であるキリストがわたしたちの救い主でもあるという、あの逆説的な福音に支えられた期待です。

審判を恐れるのではなく、審判の先にある世界の刷新を待ち望む。パウロの終末論が示す信仰の姿勢は、今を生きる私たちにも、静かな、しかし確かな力を与えてくれるように思います。


参考文献:C. R. Campbell, Paul and the Hope of Glory (Zondervan Academic, 2020)

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